子どもをADHD.LDなどと疑ったことのある方へ。1人の子どもの「才能」「素質」を引き出すという点で、教育に、その概念は必要でしょうか。

今を生きる子どもたちは、

「自分自身の才能に出会うことなく」

子ども時代を終えてしまうのではないかと懸念しています。

 

 

 

まず、言葉が、一人歩きして、物事が進んでしまっていることがしばしばあります。

研究者としても、ある概念を作りだすプロセスが仕事であり、

それが社会へ布達されることほど、嬉しいことはないのかもしれません。

 

その「概念」は常に人が作りだしたものであり、

それは「不完全」であるという認識をもたなければなりません。

 

例えば、1つの問題から派生した解決策によって作られた仕組み・ビジネスが

整えられたときに、実際の社会では、そのような状況は0%でも、

そのビジネスをまわすために、「存在」し続けなければならない

ということがあります。

 

上記を念頭において、以下を述べます。

 

現在、私が教育において、今、一番懸念していることが

高機能自閉症」「注意欠陥・多動性障害」「学習障害」と

診断を受けた子どもたち(その可能性があると見られている児童を含む)

への関わりについてです。

文科省からは、現在6.5%の児童が学級内にいる発表されています。

 発達障害とは:文部科学省

 

どの家庭でも、「我が子は、そうなのではないか。」と疑ったことのある方も

おられるのではないでしょうか。

 

現在の日本では、病気であると捉えられる傾向があり、薬、治療が行われています。

それは年々増しています。

処方された薬は、その子に当てはまるまで、

繰り返し種類を替えて処方されることもあります。

 

一方で、これだけ社会に、合成着色料、化学調味料、電磁波が蔓延している状況では、「大人は発達障害」という言葉もよく耳にします。

電話番ができない…社会人になって発達障害と診断される人が急増 - ライブドアニュース (2015・11・12)

これらのニュースから、食、環境からの影響も大きいのではないかと考えています。

 

 

大切なことはニュースやマニュアルで子どもを枠に当てはめずに、

観察するということです。

そして、このように診断された子どもたちは千差万別であり、

1つのアプローチでは当てはまらないのが現実です。

 

本来、ADHD,LDなどと人間に対して、このような曖昧なものを

発達障害」と概念付けをすることは不可能なのです。

 

もともと、能力には、人それぞれ、高い、低いというものがあるので、

我が子が、そのように診断されたからと言って、焦ったり、悲しんだりする

必要は全くありません。

 

私は、むしろ、なぜ悲しんだり、焦ったり、

様々な機関に任せてしまうのかと問いたくなります。

 

なぜなら、そのように呼ばれている児童ほど、

「才能」が顕著に現れると確信しているからです。

 

このような概念付けは、「内に秘めたものをもった子どもの才能が伸ばせない」

という状況にも繋がります。

と同時に、現在の教育機関の価値に基づく環境設定では、息詰まるのも

無理はありません。

 

 

先ほど、「才能」があると述べましたが、

私は、そのように現在外から概念付けされた子に出会うたびに、いつも驚かされます。

それも、1人1人、違うのです。その才能は、本物だと思います。

もはや、「子ども」と言えないほどの「能力」を秘めているという事実です。

 

また、彼らに共通していることは、

やはり、自分の得意を知っていて、その能力を伸ばさずにいられないほどの

「パッション」があります。

静と動を両方持ち合わせています。

もう一つは、洗脳されないということです。

観察してみると、それは「我がまま」ではなく、

「自己の欲求」に従って生きるということのセンスがあると捉えています。

 

 

このような児童に「概念付け」をして、「特別」と見るのです。

「普通」ではないと、周囲からの認識を作るものだと私は思っています。

 

そもそも、人類の進化の過程に私たちはいて、

衣食住における時代の変化にともない、

生まれてくる子どもたちは、「同じ」ということの方が考えにくいです。

 

そして、その子にとって「特別な支援」が必要なのではなく、人間において、

そのばらつきのある「能力差」こそ「多様性」であり、

教育の場では、重宝されるべきことなのではないでしょうか。

 

事実、その個に応じた声かけは必要であることは、

その個がADHD,LDだからということはありません。

全ての子どもたちは「特別」であり、同時に「普通」なのです。

 

それは、私たちの現在の常識に当てはまらないからから

「特別」だと言っているだけです。

 

それを分断して、ここまでは「普通」とかここからは「特別」とか、

それを考えているのは「人間」の判断なので、

それは、不完全であり、別の人が判断すれば、

「変わる」ということもあり得ます。

だから「絶対」ということはありません。

 

今後、上記に述べた問題は益々増えていく事が予測されます。

親であれば、我が子がそのように診断されたら、自分を責めてしまうかもしれません。

けれど、そのような心配をする必要はありません。

また、教育者であれば、学級内の安全を考えると、学級崩壊の恐れが・・を不安に思う必要もありません。

それよりも、その子の才能を、どのように引き出し、全体に還していくかという視点も大切です。

そのようにさせられて、一番困っているのは彼らです。

 

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さらに、話を前へ進めて考えてみたいと思います。

 

現在の上記のような、教育環境において、

なぜ、そのようにする必要があるのかと、私はずっと考えていました。

 

 

どうしてでしょうか。

どうして、このような「能力」を伸ばせずにいるのでしょうか。

そして、社会は、伸ばせないようにしているのでしょうか。

 

それは、伸ばされると困る人たちがいるからです。

 

なぜなら、既存の世界を変えたくないと思う人がいることは当然です。

その人たちにとっては、

「思い通り」にいくことが、ベストですから、

そこに新しい「概念」「価値」「技術」をクリエイトしていく

「才能」は必要ないのです。

厳しい言い方ですが、だからこそ、私たちの恒常性を維持し続け、

自由に才能を伸ばせていると『勘違い』させられていることを誰も疑いません。

 

親・教育者としては、我が子の「才能」を発揮させたい

と思うことは自然なことです。

しかし、その生物がもつ本来の「才能」を発揮させていくためには、

あらゆる社会の毒(食・電磁波・お金に代わる価値に基づく情報)

を読み解いて、選択していかなければ「生き抜く」ことすら困難な世界なのです。

このことを念頭において、子を育てるということが必要です。

 

 

もう1つ、目の前の我が子と関わる上で、必要なことは、

その子も自分の才能に気付かないということがあります。

それは、「知識」や「知恵」とは異なり、

経験からもたらされるものではなく、「引き出される」ということです。

それは、いつ来るか分かりません。

どのタイミングで、起きているか分かりません。

ですから、その可能性に出会う環境を十分につくることです。

それには、教育費はかかりません。

もしかすると、このような現状なのに、

教育費をかける必要はないと気が付かれるかもしれません。

 

そして、もしも、その「才能」に気付くことができれば、

その子はもうすでに豊かです。

 

 

 

最後に、我が子がADHD,LDなどと診断されて悩む方に、

私が、多くの子どもたちと関わった経験から

分かった気付きをシェアいたします。

 

私は、子どもを関わるときに、その才能はどこにあるのかと観察します。

それが見つかる瞬間を私はいつも探しています。

見つけ出そうと、観察します。

その中で、そのように言われている子ほど、その才を見つけやすいのです。

ですから、あなたに繋がる命が、そのような状況であると、

社会が認知したとしても、

それは、あなたにとって、素晴らしい知らせだと思ってもよいのです。

 

最後に、親・教育者であれば、後世において、

その「才能」を発揮させる状況において、

それを巧みに扱おうとする人がいることも念頭に入れておくことです。

だとすれば、才能を発揮させることと同時に、

それを守る強さも同時に体得していく必要があるのです。

 

最近は、個人情報を保護することに皆が管理意識をもつような社会ですが、

あなたが守るのは、地位ですか。

収入ですか?

住所ですか?

電話番号ですか?

 

なによりも、才能ではありませんか。

あなたの才能や素質を、ある一定の線を超えて

発揮できないようになっている社会の現実に気付くべきです。

その才能や感覚を大事に守ってください。

 

本来、あなたが守るべきものはそれです。

でも、それは、個人番号、組織が守ってくれるものではありません。

 

その「強さ」は、暴力的な攻撃的な強さではありません。

柔軟性と、寛容さからくる強さです。

 

彼らの「才能」が教育において、開花し、その才能を社会に発揮し、

よりよい循環ができれば、それだけで、豊かな社会になると思っています。

それは、とても自然な状態だと私は考えます。

本来もっているものを、そのまま、真っすぐ、その環境で伸ばせる。

 

後世に生きる人たちが、そのような環境で生きていることは、

想像し尽せませんが、

きっと、教育がそのような方向に向かうことをやめないと思っています。

それは、1つの進化だと捉えています。