大学生議論の場「結婚・出産・子育て」テーマは「共働きか片働きか」「恋人と結婚相手は別か」家庭を育む男女間のよき関係性は、子どもの豊かな成長の根幹を成す場所なのです。

「結婚、出産、子育てという大きなライフイベントをどうするか、大学生のうちから考える取り組み」が始まっているそうです。

 

 

「恋人と結婚相手は違う?」「共働き?片働き?」大学生のうちから議論 (THE PAGE) - Yahoo!ニュース

2016.2.26

 結婚、出産、子育てという大きなライフイベントをどうするか、大学生のうちから考える取り組みが始まっている。宮城県内の大学生が毎週集まり、結婚のあり方や、出産後の働き方などを議論。就職活動だけにとらわれない、さらに先のライフスタイルを大学生のうちから少しでも見据えることがねらいだ。

  大学生たちが進めているのは、「結婚・出産・子育てってほんとは楽しい!を調べるプロジェクト」。宮城県子育て支援課との共催で、県内の6つの大学に通う、18歳から21歳までの学生10人と、2人のサポートメンバーで構成されている。昨年10月から週1回のミーティングを重ね、先月までに計4回のセミナーを開催。サッカー元日本代表でベガルタ仙台アンバサダーの平瀬智行さんや、パパ芸人として活躍するダイノジのお二人ら、さまざまなジャンルで活動する「結婚・出産・子育ての先輩」を招き、実体験を直接聞く機会を設けた。

 セミナーの中では「出産したら、共働きか片働きか」「恋人と結婚相手は同じ人か違う人か」「結婚のメリット・デメリット」などを主題に、ゲストとプロジェクトメンバーによるディスカッションも設けられている。どちらがよい・わるい、と二分できる話題ではないが、その分、その場に参加した人も含めて「自分ならどうするか」と自分自身の問題として人生の早い段階から考えるきっかけにもなる。

「知ることによる不安も出たが、知らないよりよかった」

 ミーティングやセミナーの回を追うごとに、参加するプロジェクトメンバーの考え方も変わってきたようだ。(一部抜粋)

 

上記の記事を読み、映像を見て、意識の高い大学生だと思われるでしょうか。

そもそも、結婚や出産、子育てのことを、大学生で考えるのではなく、

幼いころから家庭を通して育まれていくものです。

 

本来であれば、これらはビックイベントや祭りごとでもなく、極自然に日常に根ざしたことです。

また、幼児、児童、青年とそれぞれの段階で、家族を通して、

このような人との関わりから自然と学び、イメージできる環境が必要です。

しかし、今では、そこを担う「家族・家庭」がそのようなことを

育む機能が低下してきています。

 

 

そして、今の日本の学生は、時間に追われています。

学生だけではありませんね。


それは樹木の年輪が重なるようにじっくりとその年齢だからこそ、

考えられる思考や身体をつかって、世界を探求することができなく

なってきていることを意味します。

 

子ども時代を生きる「子ども」がいかに日本に少ないかお気付きでしょうか。

 

中学生、高校生、大学生となれば、自ずと、自分の将来のことを考えるのです。

そのプロセスで、部活をしたり、恋愛をしたり、人と関わるなかで、

自分はどのような社会に生きていきたいのかを考えるようになります。

 

「自分の才能や技能をどう発揮するか、発揮できるのか、発揮しよう!」

という根拠のない自信も育んでいくのでしょう。

 

しかし、今、社会を見渡すと「自分を既存の社会に当てはめようとして生きる人間」

と「自分のあり方や考え方で社会を築いている自覚をもって生きる人間」が存在することを認識しなければなりません。なぜでしょうか。

ここでは本筋とずれますので、述べませんが、自身で是非考えてみてください。

 

 

さて、セミナーの内容を見てみましょう。

 

1 「出産したら、共働きか片働きか?」

そもそも、どちらか一方という選択肢ではなく、

子どもは、社会の皆で育てるものです。

夫婦、2人の問題ではなく皆が関わことです。

子育ては、教育費を稼ぐことでもなく、

教育施設に預けることでもありません。

ある部族では、女性は、自分の子も他者の子も同じ家族として

育てています。子どもは、たくさんの大人からいろいろなことを学ぶ。

子どもの成長から見れば、豊かな発育環境です。

 

 

2 「恋人と結婚相手は別?」

恋人である、恋人ではない。

結婚している。していない。

このような言葉や制度によって、私たちは、自分で自分を苦しめている

のではないでしょうか。

 

そのそも、人は人をコントロールすることはできません。

人は大きな価値観は変わらずとも、考えが変わる生き物であり、

それが人間です。

 

また、婚活という言葉が流行っていますが、

それも、女性の結婚への憧れをビジネスと結び付けたものであり、

そこで活動したからといってパートナーに出会えるわけではないでしょう。

それよりも自分自身を成長させる時間の方が豊かな時間なのではないでしょうか。

 

「浮気や不倫」という概念も、私たちを縛っているものです。

「他の人と関わることは許されない。」

「他の人とは、一線を超えてはいけない。」

 

慰謝料の請求などで、人と人が、自然に人を愛したり、成長し合ったりする

ことを疎外させています。

 

昨今は、特定の男女間を第三者が取り上げて、感興をそそられている人も

目にしますが、おかしなことです。

その男女間、本人同士の関係性でしか解らないことを、第三者が、噂話や

自分の感情の動きとともに伝えることは、非常に無礼なことです。

何に関しても言えますが、第三者から伝えられた情報は

編集がかかっていることを、認識しなければなりません。

自分で聞いて、見て、考えること以上によい手段はないのです。

 

また、子どもたちは、そのような男女間をメディアを通して、無意識に

覚えていきます。家庭の男女間でも、浮気・不倫という概念を知らずとも、

子どもは母の行動や、父の言葉から、殺伐したものを感じ取っている場合もあります。

これは、とても悲しいことです。

 

幼いころから、よき男女の関係をみて、 

自分も恋をしてみたり、母や父になりたいと思ってみたり、

幼いころから人を愛すること、好きになることを

自然にしていくこと。それが、大切です。

 

 

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子どもはよく聞き、見て、価値を学んでいます。

 

家庭を育む男女間のよき関係は、子どもの豊かな成長の

根幹を成す場所です。

 

結婚や出産、子育の場として機能する「家庭」は、男女を縛るものではなく、

個が個として成長する場所です。

 

 

人は、人を愛するとき、「自分のものにしたい」という感情で、

自分と相手を束縛するのではなく、

相手との違いのなかで魅力を知り、補い、尊重し合うことが、

より互いの成長に繋がることが解ること。

家庭や社会をよりよくしていけることを知り、互いに認識するときに機能していくものです。

 

そこには、相手を思いやり、言葉を交わし、対話すること。

 

それは、相手の言葉となり行動となり、皆のよりよい豊かな成長に

繋がっているのです。

その関係を「互いに約束を交わし、断ちましょう」と自ら言わなくても、

恋人か結婚相手かどちらかと、人を見るのではなく、

相手のよさを見つけ、感化されながら、互いに成長できるのです。

 

どちらか一方という考え方ではなく、

どのようにすればよりよい関係性を育み、子どもたちを育てていけるかと

考えてみましょう。

子どもがいる、いないでもなく、全ての人が母性を兼ね備え、

未来、子どもを育てることに関わるのです。

 

 

 

「産後うつ」早期発見に向け、日産婦対策指針示す。今、生きる環境に目を向け根本的な問題を見出すことは、周囲の情報に振り回されずに自分の生命エネルギーをよい方向へ還元させること。

 「産後うつ」この言葉をよく耳にします。

私の周囲では当てはまる人が居なかったので、気にしていませんでしたが、

日本産婦人科学会と日本産婦人科医会は、具体的な対策を進めているとの

ことですので、「出産」について改めて考えます。

 

www.fnn-news.com: 「産後うつ」早期発見...

2016.2.222

産後うつ:問診で早期発見へ 日産婦など対策指針 - 毎日新聞

2016.2.22

 日本産科婦人科学会(日産婦)と日本産婦人科医会は、来年改定する産婦人科診療ガイドラインに、「産後うつ」に関する具体的な対策を初めて盛り込む方針を固めた。産後うつになる危険性が高い女性を妊娠・出産後の早期に見つけ出すことなどが柱となる見通し。産後うつは出産した女性の10人に1人がなるとされ、子どもへの虐待や育児放棄、女性本人の自殺などにつながる恐れがある。医療現場の産後うつへの理解を広げ、効果的な対策の普及を目指す。

 現行の診療ガイドラインは、産後うつについて「精神障害が起こりやすいので注意する」などと記載するにとどまる。そこで昨年4月、日産婦と同医会、日本周産期メンタルヘルス学会が合同会議を設立、産後うつに関する国内外の統計や、妊産婦の精神ケア先進国とされる英国の取り組みなどを分析し、報告書をまとめた。

 報告書は、妊娠の初診時と出産直後の産婦人科医らによるチェックが重要と指摘。産婦人科を初めて受診した妊婦への問診では、過去にうつ病統合失調症になった経験や、パートナーからの暴力、自傷行為の有無などを質問することが、産後うつになりやすい女性を見つけ出すのに有効と位置付けた。出産後は、2週目と1カ月目のメンタルチェックの実施を勧める。具体的には、国際的に普及している英国の「エジンバラ産後うつ病質問票(EPDS)」など、二つの質問票の活用を提案した。

 そして、妊娠時、出産後のいずれであっても産後うつの危険性が高いと判断された場合は、精神科医を紹介し、専門家の受診を促すことを推奨している。

 日産婦などは、この報告書の提言を基に、来年改定する診療ガイドラインの検討を始めた。報告書を取りまとめた日産婦常務理事の竹田省(さとる)・順天堂大教授(産婦人科学)は「産後うつになりそうな妊産婦を早い段階で見つけ、専門的な支援につなげることで、自殺や虐待など深刻な例を減らせるだろう。産婦人科医と精神科医の双方が連携を強めることが必要だ」と話す。

エジンバラ産後うつ病質問票(EPDS)の内容

「過去7日間にあなたが感じたことに最も近い答えは?」

(肯定〜否定の4段階の答えの中から一つ選び、その合計点数に応じて対象者の状態を判断する)

(1)笑うことができたし、物事の面白い面も分かった

(2)物事を楽しみにして待った

(3)物事がうまくいかない時、自分を不必要に責めた

(4)はっきりした理由もないのに不安になったり、心配したりした

(5)はっきりした理由もないのに恐怖に襲われた

(6)することがたくさんあって大変だった

(7)不幸せな気分なので、眠りにくかった

(8)悲しくなったり、惨めになったりした

(9)不幸せな気分だったので、泣いていた

(10)自分自身を傷つけるという考えが浮かんできた

 

産後うつとは下記を言うようです。

 子どもを出産した後、ホルモンのバランスの急激な変化や育児への不安、社会的孤立など多様な要因から発症するうつ病の一種。出産後半年ごろまでに発症するとされる。厚生労働省研究班によると、国内の出産後の女性の発症率は▽2001年=13.4%▽05年=12.8%▽09年=10.3%と1割程度で推移。一般の人がうつ病になる率(3〜7%)より高い。

 

 目的は、「産後うつになりそうな妊産婦を早い段階で見つけ、専門的な支援につなげることで、自殺や虐待など深刻な例を減らせるだろう。産婦人科医と精神科医の双方が連携を強めることが必要だ」とあり、案が提案されています。

 

私は、上記の「エジンバラ産後うつ病質問票」を見て、

なんとも、はっきりと答えを出すことが難しい質問項目だと思いました。

 特に、経験したことのない出産を体験した者ならば、誰だって、

気分の浮き沈みや体調の変化はあります。それは、とても自然なことであり、

わざわざアンケート形式で回答する必要はあるのでしょうか。

 

それに加え 、受けた女性に悪影響を及ぼす可能性もあります。

曖昧な質問項目により、自分自身を「産後うつ」だとラベリングすることで、

安心したり、不安に思ったりして、結局自虐的な行為につながる可能性も含みます。

 

もし、そのような状態の人がいて、産後うつの症状がこの質問回答から

カテゴライズされたとしても、医療やカウンセリングの力で

よりよくなるとは思えません。

もっと、根本的な問題があるはずです。

 

先日、申し上げました子どもをADHDなどとラベリングすることと同様のことです。

 きっと、そのようにラベリングすることによりメリットがある人がいることは、

容易に想像できます。

 「発達障害児の早期発見」人が人をラベリングすることはできるのか。私たちは他者との「違い」から自己を成長させるのです。 - familylearning-fullの日記

 

 

この「産後うつ」は、医者や精神科医が、なんとか良好な方向へもっていってくれるのでしょうか。薬を服用すれば、治るのでしょうか。

そんなことは、決してありません。

 

 

かつての日本に生きる女性は多産であり、自分の生命力を発揮していました。

何人産んでも、産後うつどころか、ますま女性としての強さとしなやかさを

兼ね備えていったのです。

次々に他の大人が面倒を見たり、兄弟で世話をしたりして、

女性は「産む」ということに集中できました。

多くの人が関わることで、安心して出産し自分を生きることができたのです。

それは、生物としての理に適っています。

子育ては、皆でするものであり、我が子も他者が産んだ子も皆、同じように

「社会を担う人」として育てられていたのです。

 

 

では、現代になって突然、「産後うつ」になる女性が急増したのでしょうか。

突然変異でも起きたのでしょうか。

やはり、そのようなことはなく、「環境」における問題が大きいと思います。

 

 

まず、出産形態ですが、ほとんどは、家庭で行われていましたが、

だんだんと施設出産が進み、昭和四十年代には、病院でのお産が当たり前になります。

それは「安全で安心できる出産」と掲げられ、世の女性たちは、

家庭から助産院、病院へと「産む場所」を変更しました。

これは、女性が本来自分の生命力を発揮して産んでいた経験を排除する

大きな変革でもあったのです。

 また、この時代は「母乳よりもミルクの方がよく育つ」と言われ、

母乳育児を経験する人も少ないようです。

子どもを産む=他者の力を借りる

 手術台の上でうつ伏せになった状態で、無数のライトの下で産む。

この姿勢は、医師が赤ちゃんを取り上げるときに好都合なため、

設定されたと聞いたことがあります。

 

私は、このような体験から「出産」という方法そのものが、

本来の身体の力を発揮する方向とは違う方法で産まざるを得ない状況も

一つの要因ではないかと考えています。

 

また、今の日本では、子どもを産み育てるために「機能」している場所が少ないです。

制度だけに関わらず、食、情報、身に付けるもの、電磁波などの社会環境からも、

私たちの身体は影響を受けています。

 

産後うつ傾向:夫にも2割 子育てと仕事の両立が重圧か - 毎日新聞

2016.1.6

では、共に家庭をつくる「イクメン」と呼ばれるパパたちが活躍すればいいのか?

と言われると少し違います。

最近のお父さんは、非常に育児熱心です。

子どもを自転車にのせて走って送り迎えや授業参観にも

顔を出すお父さんが大勢います。

 

そもそも、育児は夫婦で協力して行うものだということが前提ですが、

育児とは、皆で分担し、近所、地域と共にやっていかなければ、

健全な子どもは育ちません。

というのも、いろいろな人が様々な立場で子どもに関わることは、

子どもの人格を育む上でとても重要なことです。

勿論、母子関係の関わりの大切さは、いつも申し上げています。

 

 

母になるならば、「我が子」という狭義の子ども観ではなく、

「社会の子」または「地球の子」という広義の子ども観で捉えることで、

自分がしていることへの尊さと充実感をよりはっきりと

認識できるのではないでしょうか。

 

世の母でいる人は、本当に自分の身を削って、子どものために生を全うされています。

 私たちも、この先の未来を創る子どもを「我が子」のように、

同じモチベーションで育てることで、自分自身を豊かに成長させることができます。

 

その機会は、いつでも存在しているのです。

 

また、私たちは、産後うつや育児に悪影響を及ぼしている出来事を見極めて、

自然な愛の方向性をしっかりと子どもたちに向くことのできるように

意識することは、私たちのエネルギーを無駄に消費せずに、共に育つ共同体の

よりよい豊かさに還元させることができます。

 

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多様な人が互いに育ち合える関係性を循環できている学びの共同体。

それが、「ファミリー」です。

 

 

私たちは、このような問診票があろうがなかろうが、自分自身の生命力を信じて、

振り回されずに、子どもたちに向き合うことが、正しい道であるように思います。

 

子どもは、皆で観察し、皆で伸ばし、皆で育てていくものであるという

認識の下、明日からの「子育て」をしてみてください。

 

そうすると、きっと視野が広がります。

わくわくすることが増えるでしょうし、自分の可能性にも気が付かれるでしょう。

 

ちょっとしたことに右往左往する必要はありません。

なぜなら、未来を創造するという、人類の進化に

今、一番貢献しているのですから。

 

家庭の力と女性の生命力「ハーバード大学での専業主婦に対する価値観」180度発想を転換させてみましょう!子どもを産み育むことは、女性を磨く時間であり、自分を高める時間でもあるのです。

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今、日本の家庭は、様々な問題と課題を抱えています。

1つの家庭を見ても、子どもを産み育てる「機能」を高めていく

必要があると思います。

 

ここでの「機能」とは、人が人と共に育ち合うための考え方や行動のことです。

 

かつての江戸時代の家庭は、多様な年齢の人達で構成されていました。

一般庶民の子どもは「大人の生きる姿」や「大人の働く姿」を見て育ちました。

特に、女性は家庭を支えていたわけですが、

現代の私たちには、「専業主婦」というようなイメージに映り、

「女は家庭を支えるもの」という一つの考え方に異論がある方もおられるでしょう。

一方で、当時の女性は、高い能力と聡明さを兼ね備えていたと私は思っています。

 

まず、「多産」についてですが、当時の「出産」は日常の一コマであったのです。

だから、産む前日まで普通に仕事をこなしていたそうです。

子どもを沢山産むということは、自分の身体能力の高さを知り、

それを発揮していたということがよく解ります。

 

次に、「子育て」では、非常に多くの人をマネジメントしていかなければなりませんでした。自然の力を借りて育てる農作物、何人もの意志をもつ子どもたちに目を配り、

それに加えて、毎月の月経までも粗相のないように自分でコントロールする力が

備わっていたのです。

つまり、コントロールできない存在を受け止め、それも含めてマネジメントしていたということです。

この力があれば、現代の仕事においても十分に力が発揮できそうですね。

 

女性は、このようにして「母になる」「家庭を運営する」ということを通して、

とても、高度な専門性や技能を身体的にも精神的にも学んでいたのだと思います。

 

子どもを育てるということは、自らが教育者であり、時に医師として、

時に、芸術家として・・・子どもに関わることが求められるからです。

 

このような日常のことが「過酷」な労働であったのならば、

江戸時代に暮らしていた女性は、当時、訪れた外国人の人たちの目に、

「活気のある表情」で、「生き生きと働き」「笑っている」ように映るでしょうか。

それは、紛れもなく「働く」ことも「子育て」も

共に楽しいと感じていたからだと思います。

 

どこか自分の内にある「生命力」への確信と、

未来を創っているという「責任」と「自覚」から自己を豊かに

成長させていたのではないでしょうか。

 

今の日本では、当たり前のように、女性は子どもを産み育てる「時間」に追われ、

その分、会社での会議のプレゼン、資料作成などに時間を費やしています。

 

私たちは外部から「知を得たこと」「資格を得たこと」が

自分の能力を発揮することだと認識していますが、

「本来もっている智恵をつかうこと」を自分の能力として

忘れてしまう時があります。

それをきちんと価値付け発揮できるということは私たちの喜びです。

それは「専業主婦」という概念を超えて

「女性を磨く時間」と「自分の才能を発揮する時間」と

捉えられることができるのではないでしょうか。

 

 

「専業主婦」に対する価値観で、興味深い記事を見つけました。

ハーバードでのカルチャーショック 「専業主婦」に対する価値観:日経ウーマンオンライン【ハーバード流ワークライフバランス】2016.2.23

 

専業主婦という選択肢 同級生に「とんでもない」と言われた。」

 

「ハーバード大卒」なのに「専業主婦」をしている女性の理由 - エキサイトニュース

2013.10.10

兼業主婦が当たりまえの米国社会で、ハーバード大学を卒業後、自ら専業主婦になった米国女性がいる。そんな才色兼備(さいしょくけんび)の彼女が、育児や家事中心のブログを執筆すれば、ネット上で「アンチ専業」攻撃がはじまる。 「兼業主婦VS専業主婦」の戦いをやめ、女性はお互いにサポートしていくべき、とメッセージを送る彼女の生き方をクローズアップしてみた。
ミネソタ州で生まれ育ち、ハーバード大学で心理学を専攻。スポーツ万能で音楽の才能も持ちあわせる4人娘の専業ママ。彼女のブログ『Harvard Homemaker.com』には心理学が反映された育児や有益な家事のアドバイスが紹介されている。彼女が予想していた通り、ブログで攻撃する女性が出現した。
「ハーバードで受けた教育を、専業主婦とフィットネスインストラクターでいるために使っているの?なくなった靴下を探すために、アイヴィーリーグの教育がどう役にたつわけ?努力して手にいれた教育を生かして豊かにするキャリアを持つよりも、洗濯物をソートする女性の能力を価値あるものとする文化にあなたは貢献しているのよ」。
攻撃に対する答えとし、彼女は4ページにわたる記事を執筆。不規則で長い勤務時間や研修が不可欠の医師という職業と家庭の両立はできないという結論にいたった過程や、「過去に成し遂げたことを誇りに思うけれど、今の人生のステージで家の外で達成しつづける必要性を感じない。職場が必要としている以上に、娘たちは私を必要としている」と説明する。
さらに、「私が苦労して得た学位を使って何をすべきか、それを社会に決めさせずに、自分と家族にとって私が正しいと判断した道を選んだことは、称賛に値するのかも」とユーモアを交え、「全てを手にいれる。でも、何が『全て』かはその人によって違う。このことをリスペクトしないと」と個人の選択のちがいを尊重する必要があると説いている。

「家族のニーズが変われば職場に戻るし、また逆の立場の人は家庭に入ればいい」と人生のステージにあわせて柔軟に対応し、女性は「兼業」VS「専業」と憎みあわず、お互いにサポートするべきだと呼びかけている「幸せになるための選択を」。実はこれ、簡単な選択ではありません。他人や社会からどう思われるかに左右されずに、あなたが幸せになる選択をしていきませんか。

 

今の日本の社会も「専業主婦」という言葉が縛るものが多いですが、

本来の価値を再定義し直すことは必要です。

 

私が、大学生の頃に、ハーバード大学の授業を現地の大学生と混ざって

受けた時のことです。(ほぼ言っている意味は分かりませんでしたが・・・)

世界中から集まる多様な女性が互いに意見を交わし、交流していたのを見て

純粋に私ももっと学びたいと思いました。

国籍は違い、ここで学んだことを発揮していく先も違うかもしれませんが、

女性として子どもを産み育て、社会を、地球を育んでいくことへの

同じ志のようなものを感じたこともまた事実です。

 

だからこそ、私は、日本でより子どもを取り巻く環境が

多くの女性が、自分のことや社会のことに目を向け、生物として普遍的な価値を

しっかりと全うできる社会に参画し、生きていきたいと思っています。

 

人生のうちのそんなに長くない「子育て」の時間を「自分育て」として捉えずに、

面倒な時間であり、誰かに頼んでしまう。

 そんなことを放棄する人はいるのでしょうか?

 

私たちは、今、本来女性として生を受け、生物として発揮すべき当たり前の能力が、

違う方向へ向かっていることを自覚しなければなりません。

「身体知」としては知りつつも「社会的常識」に従って生きているために

生じる「矛盾」は、女性進出を応援している制度そのものへの疑問です。

  

私たちは、誰一人例外なく、命のリミットがあります。

だから、女性として生まれた故にできる能力を最大限に発揮していくということです。

 

 

あなたが、作った資料や提案したアイディア、研究結果は、

確かに人類を進化させるかもしれません。

しかし、今の日本の社会ではそれが円滑に純粋に社会に浸透していくかどうかと

考えるととても難しいことです。

なぜなら、全ては「お金」になるか、ならないかで判断されるからです。

 

それが、あなたの求める価値ならば、それを続ける他ありませんが、

時代は変わり、人の考え方も変わります。

3、5年後には、市場がなくなっていることもあります。

 

「今、社会に提案する」という短いスパンで自分の能力を発揮させるだけでなく、

女性は「今に繋がる未来の社会を育む」という長いスパンで能力を発揮させていく

必要があります。

それには、その「価値」を今よりもずっと高くしていかなければなりません。

 

「子どもを育てることは、教育施設に預けることであり、

その教育費を稼ぐために働く。」

 

まず、この発想を180度変えてみるのです。

 

お金という価値に変換できるものではありません。

「そんなことは、綺麗ごとである」とおっしゃる方もおられるかもしれません。

何も綺麗ごとではなく、人類の進化を支えている大切な「責任」を担っています。

 

未来、どのような人が生きるのかは、私たちがどのように生きるのかで決まります。

その決定権は、選挙よりも法律よりも、重く受け止めています。

それも全てを含めた「決定権」です。

 それは、現代日本で暮らす女性全てが担います。

その「決定権」は、年齢に関係なく、全ての人がもっています。

 

子どもたちは、「こんな生き方をしなさい」とか「この進学先にしなさい」とか

そのようなことを助言してもらうことを求めてはいません。

自分と関わる人が、「どのように生きているか」その一点に尽きます。

 

教育とは、何かを伝授したり、享受したりするだけでなく、

自分を生きる過程を嘘偽りなく、表現するということです。

 

そこに、感化されて人は自らを成長させようと努力します。

本来、家庭とはそのような場所でありました。

本来、寺子屋などの教育施設はそのような場所でもありました。

 

人が、自分の意志で学びほぐしたり、真似たり、学び続けられる。

 

そんな場所は、今、ここからでも可能になり、

そこに意志をもつ人がいれば、自ずと始まっているのです。

 

子どもは、如何なる場所でも時間でも、

自らを成長させたいという欲求をもっています。

 

私たちが担う大切なことを忘れないように

しっかりと目を見開いて、感性を磨くと同時に

「生命の知恵」を言語化し、伝えていくことは国境を越えてできるのです。

 

 

乳児破棄容疑で高校生男女を逮捕 「命を育むこと」に年齢は関係がないのです。女性と女性の世代の「生命の普遍的価値」を「知恵」として受け継ぐ架け橋を「今」築き直す必要があります。

 

私は、ここ数日の間、日本で起きている下記ニュースについて考えています。

<乳児遺棄容疑>自宅で出産、放置か…高校生男女を逮捕 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース2016.2.15

 生まれたばかりの乳児の遺体を遺棄したとして、静岡県警富士署は15日、県東部に住む10代の高校生の男女を死体遺棄容疑で逮捕したと発表した。

 容疑は、今年1月下旬ごろ、生まれて間もなく死亡した男児を、少年の自宅の部屋に遺棄したとしている。2人は容疑を認めているという。

 県警捜査1課によると、2人は交際中で、少女は1月下旬、自宅の浴室で男児を出産。男児の父親の少年が自宅に男児を持ち帰り、放置していた。県警は男児の死因を調べている。

 少女は2月10日、体調不良で同県内の病院を受診。医師が出産に気付き、少年が病院に男児の遺体を持参した。遺体はタオルにくるまれた状態でバッグに入れられ、腐敗が始まっていた。

 少女は、少年に妊娠を打ち明けていたが、親などには相談していなかったとみられる。【松岡大地】 

若い親による「子捨て」 相次ぐ虐待事件 (伊豆新聞) - Yahoo!ニュース

2016.2.21

 

先日、トイレで女児出産 ・日本で子ども 「虐待死」相次ぐ。なぜ!? 「命」を繋ぎ、育む、私たちの普遍的な価値は、50年後この地球上に存在するのでしょうか。 - familylearning-fullの日記、を書きました。立て続けに、このような出来事を受けて、

各教育施設では、「性教育」(現状の性教育では体のこと、避妊のこと、病気のこと)

が、あらゆる方面から見直され、「命」についての「価値」が変革されていく

ことだと思います。

 

私は、このことを知った時に、とてもやるせない気持ちで

涙がこらえられなくなりました。

どうして、そのようなことが起きたのかを考えずにはいられませんでした。

 

その背景を考えると・・・

・10代の人が産んだ子どもは、社会的に放置され育てる環境が無いという事実。

・1人の人が親になることへの期待と安心感を学ぶ機会の減少。

・貧困世帯の増加により、育てるための金銭的問題。

・義務教育での性教育の課題。

 

そもそも、10代で産んだ子どもも、20代で産んだ子どもも、

30,40代で産んだ子どもも皆、同様に社会において歓迎され、

育てていくことが理想です。

 

今では、「10代で子を産むなんて・・・」

「まだ、出産は早いよ、仕事で一人前になってからよ・・・」

「早く、高学歴のよい人を見つけ結婚しなさい・・・」

不妊治療を受けた方がいいよ・・・」

 

など、女性が女性に対する無言のプレッシャーのようなものが存在します。

それに加え、自由に恋愛するなんてことも、現代では難しいのです。

好きな人がいても、その人の年齢だったり、働く先、学歴などと

そのようなものを、私たちの親世代は求めます。

 

また、パートナーを見ると、収入、学歴、年齢などを中心に選ぶ常識の下、

そのような思考が男女間において、自然に子どもを授かり、

その後の家族・夫婦関係にも大きく影響しているのではないでしょうか。

離婚推移:厚生労働省:平成21年度「離婚に関する統計」の概況:離婚の年次推移

 

 

この女性も、親には言えなかった・・・相談できなかった・・・

そのことの意味を私たちは、しっかりと受け止めていく必要があります。

 

 

子どもを見ていると、夫婦仲が良く、こどもを尊重し、よき躾の環境で

育った子どもは、大人になることを喜び、自然に「命」を繋ぐのでしょう。

 

 

しかし、この社会(これから先)は、まず子どもを産んで育てるためには、

女性は働き、稼がなくてはならない。

第1-3-17図 共働き等世帯数の推移 | 内閣府男女共同参画局

昭和53年から平成23年にかけて、共働き世帯は、373万世帯も増加しており、

男性雇用主と無職の妻から成る家庭は、341万世帯減少しています。

その先の、課題が大きく圧し掛かるのです。

この差は どんどん開いていくことでしょう。

 

 

まず、子どもを「産む」までの課題。

次に、産んでからの課題。

 

これらの課題をすべてクリアできて、現代の日本に生きる女性は、

母になることができるのです。

女性として生まれ、子どもを産むことは、自分を成長させ、

素晴らしいことだと知りながらも、発揮できずにいるのです。

中絶件数:人工妊娠中絶件数 [ 2012年第一位 鳥取県 ]|新・都道府県別統計とランキングで見る県民性 [とどラン]

15歳から19歳で年間20497件で、全体では年間の中絶件数は202,106件です。

 

 

 

 

 

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この世に、生まれてきてはいけない命はありますか。

 

この世に、生まれてほしくない命はありますか。

 

 

そんなもの一つもないはずなのに、

どうして、10 代で出産を医者の手をかりずに、浴槽で、

自らの生命力で産むと決めた女性が逮捕されるのでしょうか。

 

命を産み、育むことが尊い価値であるのにも関わらず、

それと反した生活や情報、教育をしてきたからでしょう。

それがこの結果に繋がってしまったのだと思います。

 

子どもを育てることは、誰しも初めての経験なのですから、

年齢関係なく、皆が学ぶべきです。

子どもの才能を見抜き、発揮させ、しつけ、よりよい環境を

自分自身で作りだしていくのです。

そのオーダーメイド的なその子に合わせて時間を使うことができるのは、

家庭しかありません。大衆教育(義務教育)では、太刀打ちできない重要な

ところを担うのです。

 

 

しかし現代の子育ての常識では「教育施設に預ける 」ことが

日常です。なんだか、おかしくないでしょうか。

一番、子どもにとって大事な時期を、親と離れて過ごす。

0歳~6歳までの間は、できるだけ親が関わり育てることベストです。

その頃の、子どもの発育による母子関係は人が生きていくうえで重要な

関係性を育みます。

 

子どもが、産まれて育つことが、当たり前のようによき環境でできることは、

私たちの幸せでもあり、人間の普遍的な喜びでもあります。

 これは、私たちの「喜び」なのです。

 

この地球上に、かつて日本は「子どもの楽園」であると

訪れた外国人は言いました。

大人に混じって、子どもは豊かに育っていた。 

その頃の風景を、私は、取り戻し、もう一度、子どもを育てるということ、

命を育むということを問い直したいです。

 

皆さんは、この出来事をどのように考えておられるのでしょうか。

 

私は、女性と女性の世代の「普遍的価値」を「知恵」として受け継ぐ、

架け橋を、もう一度築きなおす必要があると考えます。

 

 

子どもの学習環境をデザインする上で、大切な2つの視点。今、この一瞬を「自分の目で見て聞いて感じる」ことが難しい社会だからこそ、自分を中心に据えて学ぶ必要があります。

 

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私たちは、いつから「今、ここを生きること、感じること」

に鈍感になったのでしょうか。

 

この一瞬に起きていることを感じずに、まず「記録」し「記憶」させておく

ための一つの道具に預けようとする光景をよく目にします。

そして、番号と共にいつでも取り出せようにしておく。

このような日常のどこにでもある風景は、

人の「思考」にも大きく影響を及ぼしています。

 

私は、最近のニュースの記事や人が発言する言葉を耳にして、

どこか他者を冷ややかな目で見て、

自分と世界を切り離して生きている人がいるように感じています。

 

例えば、他者の噂話をする人や、相手を平気で傷つけるような言葉。

また、この世界で起こっていることを、窓の外の景色を見るように、

眺めてしまうときはないでしょうか。

 

私たちは、世界のどこで何が起こっていようと、必ず影響し合っています。

だからこそ、まず、その中に自分が生きていることを認識し、

当事者であり、中心に居なくては、決して自分を生きることはできないはずです。

 

 

現代において、今この一瞬を真剣に生きて学ぶならば、

「自分を中心に据える」ことを意識して生活しなければなりません。

 

 

もちろん、人は、客観的な視点をもつことはとても大切です。

「自分を自分が上から俯瞰して見る視点」は、メタ認知と呼ばれ、

今、自分はどのようにあるのかを自分で見る力です。

教育において、出来事を「振り返る」行為は、

体験したことをより一層、深いものにして経験知として

享受することになります。

 

 しかし、それと同じくらい物事に没頭し、

自分の視覚、嗅覚、触覚、味覚を使って、日常を生きることは重要です。

「今を集中して生きる」ということです。

客観視すことは、自分がそのような時間を生きていない限り、

意味を成しません。

 

夢中になって、物事を進めていく経験は幼い頃ならば、

誰もが経験するはずで、子どもはその状態に入るスピードがとても早いです。

 

また、子どもを観察していると、もう一つ大事なことに気がつきます。

それは、この「何かに夢中になって取り組める状態」は、

精神的にも身体的にも「安心感」と「安全」を子ども自身が感じて、

はじめて発揮できるということです。

 

 

あっという間に過ぎるあの時間。

もっと、やっていたくなるあの感覚。

 まず、目の前の「今、ある状況に没頭してみること」

目の前に広がる景色を感じる時間。

目の前の湯気が立つお料理を視覚や嗅覚で楽しむ時間。

目の前の人やものとの出会いに全神経をかけて関わる時間。

 

この「今、この一瞬」をもっと尊い価値として認識することです。

 

私たちは、一つの道具に「記憶」することを任せなくても、

その時の空気や感覚で感じたものが記憶に残ります。

 

それは、生きた記憶となるので、次の経験により彩りを加え、

豊かな体験になることがあるのです。

 

物事に夢中になって没頭できること。

そして、自分を振り返ること。

そのための「安心」できる空間を作ることができるのは、

教育施設でもなく、教師でもなく、

あなた自身です。

高校生のデモ参加と選挙権18歳以上の引き下げに伴う「公共」の新設に向けて。高校生のみんなへ。私たちは今、何を学び、どう生きるのか。「学習」の先に在るものとは。

 

高校生のデモ参加の政治活動に加え、

選挙権の18歳以上に引き下げに伴った「公共」の必修化の検討。

高校の新学習指導要領では、公民科のうち「現代社会」の廃止検討がなされ、

かわりに「公共」を必修にしていく意向に今後も目が離せません。

高校生のデモ参加、事前届け出不要 大阪府教委が方針:朝日新聞デジタル

2016.2.18

 高校生のデモ参加などの政治活動をめぐり、大阪府教育委員会は、休日や放課後に校外で政治活動をする際、生徒の事前届け出は不要とする方針を固めた。政治活動参加などの対応指針を記した教員向けガイドラインをまとめ、19日の府教委会議で公表する。

 高校生の政治活動は1969年の旧文部省通知で規制していたが、選挙権年齢が18歳以上に引き下げられるのを受け、文科省が昨秋、校外での政治活動を原則容認する通知を出した。一方で都道府県教委に対し、生徒が校外での政治活動に参加する際は、事前に届け出をさせることを認める見解も示していた。

 届け出不要とした府教委の判断について、関係者は「学校が校外での生徒の行動を逐一把握するのは現実的に難しく、届け出制にすれば事実上の許可制になる恐れもある」と説明。ガイドラインでは「例えば政治集会への参加届の提出を求める必要はありません」などと記載した。

 ガイドラインには、校内での政治活動の原則禁止や選挙権のない外国籍の生徒への配慮についても記載。2年生までに政治に参加する意義や選挙の仕組みなどを学ぶ時間を5時間以上確保することも求めている。

 

「現代社会」廃止を検討 必修科目「公共」新設で文科省 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース 

2016.2.16

「公共」では、考察だけでなく、アクティブラーニングに絡めて、

ディベートなどの手法を用いて、さらに「主体的な選択・判断」を促して

いくような方向になるのではないかと考えます。

そして、政治活動参加への対応指針「デモ参加事前参加届け出不要」

 

高校生に、選挙、公のこと、社会秩序、家族制度などを含む「社会通念」

に関する学習を深めていくことについて、

今を生きる16、17、18歳の高校生に、以下伝えます。

 

 

あなたたちが、デモに参加する場合、

どこで「知識」や「情報」を得るのでしょうか。

テレビのニュースですか?

近くの大人ですか?どこかの団体ですか?

LINEで情報交換し、勉強会をするのですか?

 

大人は、生徒に主体的な判断や考えを教育上、求めるのであるのならば、

人は、その分の「情報」をどこかで自分で得ようとするのが自然な思考です。

 

しかし、現代の社会において、どの情報が信用に値し、

どの情報が作られて流されているのかを主体的に判断するには、

高いリテラシーが必要になります。

 

私たちは、幼いころから、「与えられる情報を疑わずに受け取る」ことや

「ある規準において〇か×か」を判断する学習は繰り返してきました。

しかし、多角的な視点で、〇×を付けられない物事について判断し、決断し、

選んで行動することについては、一切、教えられず、放置されてきました。

その理由については、自分で考えてみるとよいでしょう。

 

 

「政治」に関心を向けることは、

自分の未来を考えることと同じことなので、とても重要なことです。

しかし、私たちはあまりにも「考えないことを教えられてきた」ために、

自分で思考することも、自分の時間を生きることも、

教育上許されてこなかったのです。

 

小学生、中学生の頃の自分を思い出してみてください。

大人がよく言いますね。

「○○しなさい。」

「○○さんも、やっているじゃないの。」

「この高校・大学にいくためには偏差値をもっとあげなくちゃ。」

「君のことを思って言っているのだよ。」

 

と一度「社会」に出た大人は言います。

それに対して怒りや反感を覚えた頃もあるのではないでしょうか。

 思春期などとは関係なく、人として生きるならば当たり前の感情です。

とても健全なことで、生物として「どちらが正しいか」を

自分なりに考え、判断し、思考する時間だったのでしょう。

 

そのような時間を経てもなお、

集団生活を学び、「人とは違うことはいけないことだ」という刷り込みの下、

今のあなたの「価値観」が構築されてきたことをまず認識しましょう。

 

その「思考」は、本当の公共のためではなく、

私欲のために、自分たちの利益ばかりを追い求める人

にとっては、絶好のカモではないでしょうか。

 

カモだなんて!何を言っているの?

やることをきちんとやってきたわ!

社会からはみ出ないように、良く生きてきた!

そのように感じている人ほど絶好のカモです。

 

 

この「社会」は、「私」や「あなた」という存在が生まれる前から

ずっと続いています。

その度に、人間が作ってきたのです。

法律や制度があれば、人は守らなければならない。

そうでなければ、人としての営みはできなくなると私たちは思います。

では、その制度や決まりは、誰のためのものでしょうか。

 本当に私たちを守るためのものなのでしょうか。

 

 

本来、私たちは、生きることそのものを楽しみながら生きてきたのです。

自分の成長を喜び、他者を関わることで視野が広がり、

心のひだを増やしてきました。それが知恵となって受け継がれてきたのです。

 

 

しかし、今の社会を見渡してみましょう。

道行く人を観察してみましょう。

そこを見ることは、教科書に書かれていることよりも事実に近いです。 

 

 

 

人間としての普遍的な価値を無視することばかりが目立つようになりました。

 

人間の体に悪影響を及ぼす食品ばかりが目立つようになりました。

 

私たちの思考を低迷させる情報ばかりが目立つようになりました。

 

そして、私たちの「私欲」ばかりを高ようとする人が目立つようになりました。

 

 

このような社会に生きる私たちに、「公共」で何を考えろと言うのでしょうか。

アクティブラーニングで、「自主的に自発的に行動すること」を教えるのでしょうか。

 

 

それは教育において、「放置」にすぎません。

「過保護」は、それ以上にいけないことですが、

「放置」することも、教育とは言えないのです。

 

 

もしも、地球が1つの家族だったら、

誰が、弟が危険な状態にあっているのを放っておくでしょうか。

兄が、間違えたことをしていたら必ず「違うよ!」と伝えるでしょう。

妹が出産したら、年齢問わず「おめでとう」と言うでしょう。

 

私たちは、何に縛られて生きているのか。

 

それは自分の自己肯定感の低さでもなく、家族の問題でもなく、

社会の常識の問題でもなく、

 

あなた自身のなかの「生物の普遍的な価値」に矛盾せずに生きる強さから

背を向けている「弱さ」でしかありません。

 

この社会が悪いのですか?

これまでの先人の人が悪いのですか?

この社会を私欲でコントロールしようとしている人のせいですか?

 

違うのです。

その人も同じように「今」を生きている。

大木のように、人間は1000年も2000年も生きることはできません。

生きてたった100年。

たったの100年間です。

 

そのなかで、私たちは自己成長し、家族をもち、他者と関わることで

少しでも身体的・精神的に豊かになって死んでいくのです。

そして、皆がよりよい後世へ知恵を繋ぎ、託すのです。

そのようにして、大木が1000年生きる間に、

人間は入れ替わり立ち代わり「今」を生きています。

 

その中でそれほど大きく変革するものは、少しもないはずです。

そんなに必死になって「価値を変える」必要はあるでしょうか。

 

私たちは、自分たちで解決するための「言葉」と「感情」と「倫理観」

をもっています。

それを使わずに、第三者が勝手に割り込んで、物事を進めていく。

そんな時間は、私たちの成長に必要でしょうか。

 

 

 

自分を大切にすれば、他者への思いやりが自然に溢れてきます。

なぜなら、社会も「私」も繋がっているからです。

「社会」とは「人」と「人」の集合体で成り立っているのですから、

常識や社会通念を学ぶよりも、どんな人がそこに生きているのかを

知ることのほうが大切です。

 

どのような価値観をもった人が多くなれば、より生きやすくなるのかを

現代社会通念」を規準にするのではなく、

あなたが生まれてからずっともっている「普遍的な生物として生きる価値」

を規準に再度、学び直しが必要なのです。

 

それは、高校生だけでなく、大人も含め社会に存在する

私たち1人1人が考えていくことは、現代社会に生きる人間の「私欲」のために、

後に作ったシステムよりも尊いことなのです。

 

年を重ねるほど「社会の常識」から抜け出せなくなります。

それは、生きることを放棄した死に近い状態です。

 

毎日、添加物や化学調味料を食べ続け、

スマートフォンやパソコン、ドライヤーなどで強い電磁波を浴び続け、

ラインやゲーム上で、エネルギーの発散をし、

高い塾代を費やし志望校に入り、バイトに明け暮れ、

会社に入ったら奨学金の返済に追われる。

重い奨学金で破産も 経済格差が希望格差に|日テレNEWS24

2016.2.16

 

そして、気が付けば人生を終えていた。

なんていうこともあり得るのです。

 

看護師が死目の前にした患者の呟く言葉で、

「あんなにも必死で働かなければよかった。」

「家族といる時間を大切にするべきだった。」

「子どもを産めばよかった。」

「ごめんねと言えばよかった。」

「ありがとうとあの人にもう一度あって伝えたい。」

をよく耳にするそうです。

 

 

目の前にある「今」という時間は、

あなたにはもう二度と戻らない「生命の時間」です。

こうしている間にも、身体は、動き、細胞は入れ替わっています。

 

「命」の時間を、どのように使うかは「自由」です。

と申し上げたいのですが、現代社会を生き、この時代を生き抜くならば、

強い意思と素直さ、自分に正直に全うに生きることの責任です。

その先にしか自由はありません。

無知でいること、無関心でいることは、「生」の反対を意味します。

 

自分で考え続けること。

思考することをやめないこと。

生物としての普遍的価値を認識すること。

 

それが、学ぶということです。

 

 これからは、呼吸することと同じくらい自然にそれらを

していかなくては、生きられない社会なのです。

いつまで、おんぶにだっこされているのでしょうか。

一刻も早く、自分の足で歩むことを覚えるのです。

 

 

それは、誰かに教えられるものではなく、

 自分を自分が教育していくことそのものです。

 

唯一の希望は、私たちには、まだそれだけの知恵があり、

思考できる余白が残っていることです。

 

高校生のみなさんであれば、そのことについて

感度の高い感受性で、物事をみることができると信じています。

 

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「余った弁当を貧困児童に」本来、児童貧困という言葉は存在するのでしょうか。貧困・裕福など関係なく、どの家庭も同じように抱える根本的な問題に目を向ける必要があります。

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「児童貧困」の対策や対応については、それぞれの市町村で

早急の課題となっているようです。

しかし、「児童貧困」という言葉ばかりが、一人歩きしてはいないでしょうか。

 

私は、下記の記事を見た瞬間に、現代社会の子どもを取り巻く環境が

ここまで悪化してきたのかと危機を感じずにはいられません。

 

余った弁当を貧困児童に 福岡県がコンビニ、NPOと連携 - 西日本新聞

2016.2.16

 福岡県は、子どもの貧困対策の一環として、コンビニエンスストアで販売しなくなった消費期限前のパンや弁当、おにぎりなどの食品を無償提供してもらい、NPO法人などを通して貧困世帯の子どもたちに届ける仕組みを新年度に創設する。コンビニの余剰食品を再利用する取り組みは横浜市が2006年に始めたが、都道府県レベルでは全国で初めて。

 県はまた、食べられるのに廃棄される食品を企業から提供してもらい、生活困窮世帯や児童養護施設などに届ける「フードバンク」活動の支援事業にも新たに乗り出す。売れ残りやラベルの印字ミスなどで廃棄される食品は県内では年間25万トンに上るとされ、こうした「食品ロス」の削減につなげるのも狙いだ。

 県によると、コンビニ弁当などの再利用は、包括提携協定を結ぶ大手チェーンに協力を要請。販売期限が過ぎても、消費期限は来ていない食品を店舗で提供してもらう。自治体の委託などで生活困窮世帯の児童に学習支援をしている民間団体や社会福祉協議会のスタッフが店舗まで食品を受け取りに行き、学習支援の会場で子どもたちに配布する仕組みをつくる。

 県内には公民館などを使った貧困世帯の学習支援会場が37カ所(県把握分)あり、初年度は3分の1程度の団体に、食品の運搬に必要な人件費などの経費として20万円ずつ助成する。新年度予算案に260万円の事業費を盛り込んだ。

 県福祉労働部は「月に1~2度、居場所づくりを兼ねて手料理を提供する『子ども食堂』とは異なり、地域で恒常的に子どもたちを支援する仕組みをつくりたい」としている。

 フードバンク活動には全国40団体が取り組むが、県内では北九州市NPO法人「フードバンク北九州ライフアゲイン」だけ。活動普及のため、県は新年度予算案に1170万円を計上した。モデル事業として民間の1団体を公募で選出。廃棄前の食べられる食品を企業から提供してもらい、生活困窮者の支援を行う自立相談支援事務所などで提供する。人件費を2年間補助し、課題も検証。新たな担い手となり得るNPOの実態把握や、協力を得られる企業の開拓も進める。

 

子どもの貧困対策=コンビニ弁当の提供

そもそも、余剰食品を生むシステムがいけないのは言うまでもありません。

 

コンビニ弁当を食す子ども=貧困

というイメージが先行しますが、これは間違いです。

それに加え、添加物や化学調味料などを含むものを子どもに手渡すこと自体が

間違っています。

今よりも、悪循環に繋がります。

 

そもそも、子どもの貧困と

OECDによると2005年の日本の子どもの貧困率は14.3%となっており、約6人に1人が貧困状態と言われています(2009年の厚生労働省調査によるとは15.7%)。
子どもの貧困とは、等価可処分所得の中央値の50%以下の所得で暮らす相対的貧困の17歳以下の子どもの存在及び生活状況を言い、一般的な水準の半分にも満たない水準で暮らしている子どもたちがどれだけいるのかということを指しています。 
このような日本における貧困率は下図のようにOECD平均値を超えており、世界水準でみたら高い水準であることがわかります。

 http://3keys.jp/state/ (参照)

とあります。

 

 

私は、裕福な家庭でも、貧困な家庭でも、

子どもの「心の豊かさ」と「健全・健康な豊かさ」で図った場合、

同じレベルであり、ほぼ変わりないと思っています。

 

 理由は、近年の子どもたちの様子をつぶさに観察していると、

貧困と呼ばれている家庭でも子どもは豊かに育つことはできますし、

裕福と呼ばれている家庭でも、本来の豊かさにかけている場合もあるからです。

 

 

児童貧困=かわいそう

 

それは、先進国と呼ばれている国の人が、発展途上国と呼ばれる

人たちを見て感じる気持ちと同じ意味です。

「お金やものを恵んであげなくればならない。」勝手な判断です。

そのなかで文化や自然を大事にして暮らしているにも関わらず、

それをどんどん潰し開拓し、さらに貧困を生むような仕組みを

作り上げていくのです。

そうやって、支援していると思っているのは、こちらの自己満足であり

本来であれば、手を出してはいけないところです。

 

その縮図が、上記記事の事例です。

 

 

 

まず、私たちの「子育て及び教育環境」に目を向けた時に、

子どもにとって、やさしい建築

子どもにとって、安全な食

子どもにとって、安心できる情報

子どもにとって、遊び道具

は、ほとんど目にすることはありません。

 

 

多くの人が利用するスーパーマーケットには、添加物などを含む食べ物が、

きれいな色の箱と誘惑するような文言や言葉と、共に並べてあります。

 

子どもの身体を壊すような、強い電磁波を発する道具があちらこちらに

存在し、身近な大人が使っています。

 

高層マンションなどで暮らす世帯が多いですが、

その分子どもの転落死も多発しています。

土を踏める高さで生活することは、乳幼児期の空間認知には、とても重要なことです。

空と地面と自分の位置を意識し、いつでも土に触ることのできる感覚を

子どもの取り巻く環境では配慮したいものです。

 

また、テレビ番組による情報過多。

バラエティ番組や芸能人の言葉をそのまま覚え、

それを使うことによって、偏った価値を高めてしまいます。

なぜ、CMがあるのか。

どのようにドラマや幼児番組は作られているのかを親は知っていなくてはなりません。

子どもに見せるべきものなのか、見せなくてもよいものなのかを

取捨選択する分別する目を持ちましょう。

 

他にも、薬、ワクチン・・・・など、まだまだあります。

 

 

大切なことは、これらを排除するために躍起になるのではなく、

不安に駆られるのでもなく、まずは、知ることです。

私たちは、もう無知ではいられないのです。

 

私たちの「子育て」は、その土台の上で行われていることを認識し、

受け止なければなりません。

 その上で、今をどのようにして生きるかを考えることです。

 

それらは、人間の欲を刺激させるものばかりです。

お金があると便利ですが、お金ばかりを追い求めても、

健全で健康な生活には繋がりません。

 

つまり、裕福な家庭=健康な家庭

ではないのです。

 

人として生きる上で、子どもは健全・健康な生活を営むことすら、

難しい社会ですが、知恵をつかって1つ1つ外していくことは可能です。

 

 

普通に生活していても、子どもの本来の力が発揮できない社会です。

しかし、子どもは、自然の感覚を取り戻のが早いですから、

その状態が心地よいと感ずれば、身体知として記憶します。

 

 

シンプルに、生物として生きるための自然な「生命力」を発揮できる

環境を、私はつくりたいです。

 

裕福であろうが、貧困であろうが、

どちらも、同じように今すぐに始めなければなりません。

 

そうして初めて、児童貧困という言葉など、

無いと知るかもしれません。

 

本当の児童貧困は、自分の「生命力」を発揮できず、

あらゆる社会毒に呑まれてしまった子どものことを言うのではないでしょうか。

 

それは、子どもだけでなく、私たち大人にも当てはまるのです。

貧困も裕福も人間が作りだした概念なのです。

そこに縛られる必要はなく、自分の「生命力」を信じて、

健全・健康に生きることを求めることは、貧困や裕福などとは関係なく、

本当に、子どもを大切に思い、子どもを育てる社会であるならば、

私たち1人1人の「在り方」が変わっていくのでしょう。

 

そこに自分だとか他者だとか境界線はないのです。

自分一人でよくなることもできず、

小さな自分の選択と判断の連続が、この環境を良くしていく

大きな一歩になっているのです。

 

 

 

「児童貧困」の意味から、「貧困」と「豊かさ」の関係について考える。あなたは、どちらを選びますか。私たちが、今すぐに始められること。 - familylearning-fullの日記

2015.12.07