「発達障害児の早期発見」人が人をラベリングすることはできるのか。私たちは他者との「違い」から自己を成長させるのです。
発達障害という言葉を、耳にしないしない日がないというほど、
私たちの日常に潜み、現代の「子ども観」に大きな影響を与えています。
そして、その理解や解決の方法を模索している状況があります。(下記記事)
その中で、
「人を理解するということ」
「自己成長」について考えいきたいと思います。
発達障ちょ害児の早自己成長期発見・支援 5年間、全県的な人材育成 埼玉 - 産経ニュース
2016.2.3
■専門研修受講1万546人
県は2日、子供が抱える発達障害の早期発見・支援に向けて、平成23年度から保育士や幼稚園・小学校教員、市町村職員を対象に実施してきた専門研修の受講者が5年間で1万546人に上ると発表した。県福祉政策課によると、全県的な人材育成は全国でも異例。幼い頃からの支援で集団生活への適応など状況改善が可能になるほか、本人や家族の負担軽減にもつながるという。(川畑仁志)
発達障害は先天的な脳機能の障害で、自閉症やアスペルガー症候群、注意欠陥多動性障害(ADHD)、学習障害(LD)など行動特性によって分類される。文部科学省の調査によると、発達障害が疑われる子供の割合は6・5%で、県内には15歳未満で約6万1千人いるとみられている。
県は23~27年度の「発達障害児・者支援プロジェクト」で、発達障害に早期に気付いた上で適切な支援ができる人材の育成に向け、大学教員や医師らによる研修を年間延べ約50回実施。27年末までに保育所、幼稚園では1園当たり平均3人となる5856人、小学校では平均6人の3921人、市町村職員は769人が受講した。
保育士らが発達障害が疑われると判断した場合には、県の委託を受けた障害児通所施設の作業療法士や臨床心理士らによる巡回を要請。これまでに子供延べ1万8826人について、発達に応じた支援方法の助言を受けたという。
保護者に対しても県内3カ所ある専門医療機関「中核発達支援センター」を紹介し、26年度には延べ2万8344人が受診した。27年6月以降、作業療法士らが個別療育を行う「地域療育センター」を6カ所開設し、月300人以上が利用している。
上田清司知事は2日の定例会見で「県の手法には国なども注目しており、発達障害の解決には、このような方法をとるほかない」と述べた。
発達障害を早期発見へ 厚労省、地域の小児科医らに研修 :日本経済新聞
外見では判断が難しい自閉症やアスペルガー症候群などの発達障害について、厚生労働省は今春から各都道府県と政令指定都市で、地域で開業する小児科医らを広く対象にした研修を始める。障害に対する認識を底上げし、幼少期での早期発見と支援につなげるのが狙い。どの地域でも専門医への橋渡しなど一定水準の対応ができるようにしたい考えだ。
発達障害は生まれつきの脳機能の障害が原因とされる。2012年の文部科学省の調査では、通常学級に通う小中学生の6.5%に可能性があると推計されている。
早期発見には、最初に相談を受ける身近な「かかりつけ医」の対応が重要だが、診断を得られるまでに時間がかかったり医師の理解不足のために通院しづらくなったりすることがある。
医師の研修は現在、国立精神・神経医療研究センター(東京都小平市)が実施している。厚労省によると、同センターの指導者研修を受けた各地の専門医らに地元で一般の医師や保健師、看護師向けの「地方版」研修を開いてもらう。
都道府県と政令市が実施主体となり、費用は国と自治体で半分ずつ負担する。厚労省は延べ約1万7千人分の費用として16年度予算案に4400万円を計上した。
研修では発達障害に特有の言動などの見分け方を伝え、専門的な医療機関を紹介するよう促す。感覚過敏やコミュニケーションが苦手といった特徴もあるため、通常の治療での注意点も教える。実際に研修を行うかどうかや、時期、回数は自治体の判断に任せる。
発達障害の専門医がいる医療機関はまだ少なく患者が集中して長期間の順番待ちという状況もみられる。厚労省は「一般の医師の対応力を上げることで、役割分担や専門医の負担軽減につなげたい」としている。〔共同〕
教諭への研修強化と養成・・・
専門医療機関との連携・・・
専門医の研修・・・
「発達障害の解決には、このような方法をとるしかない」
「一般の医師の対応力を上げることで、
役割分担や専門医の負担軽減につなげたい」
私は、家庭や教育施設で、ADHD,LD,アスペルガー症候群、自閉症などと
人間が作った基準でカテゴライズされ、
「普通とは違う」つまり、「問題のある子」「課題がある子」と
社会が認識していくことに疑問を感じています。
理由は、周囲の大人や友達が「特別」「課題」「支援」などの眼差しで
その子と関わることは、大きな視点で見れば、
私たちが生物として生まれ、その進化の可能性を排除していることに
繋がっていると考えるからです。
私は「人は、環境によって変わる存在」だと思っていますが、
この生物として「その人自身」の
変えることのできない性質や体質というものもあると思っています。
それは時に、唯一無二の「個性」になり、
その人自身の「魅力」に変わるものです。
そもそも、なぜ社会及び教育において、このラベリングは、必要なのかと考えた時、
人は、理解できないものや不思議なものに対して、概念付けをすることで、
安心感を得る傾向があります。
だから、「人を育てる」家庭、教育の場で「理解できない子どもの様子」
をこのように「当てはめる先」を見出すことで、「子どもの理解」を
図ろうとします。
ましてや、この判断を専門家や医師に「任せる」という
傾向は非常に恐ろしいことだと感じています。
私たちは我が子を理解しようとしたとき、
自分の目で見て、聞いて、感じて理解を図ろうとします。
「任せる 」ということは、子どもの声、表情、思考、言葉、話し方、癖、行動を
自身の感受性と探求心と知識と経験的な知恵から
観察し、日常から観ていくことを自ら放棄しているようにも感じます。
そもそも、「人を理解する」ことは、例え家族であっても難しいことです。
「理解する」とは
1 物事の道理や筋道が正しくわかること。意味・内容をのみこむこと。
2 他人の気持ちや立場を察すること。
という意味ですが、他人の気持ちを察すると言うことはとても難しい技です。
そもそも、完璧な人なんて、どこにも存在しておらず、
誰もが、
「まだ成長できる可能性のある発展途中の段階」
であり、そのような人間が、ある特定の人間を「理解」することは、
できるのでしょうか。
しかし、現代はそれをある一定の基準値を設けて、
その子の理解を図ろうとしているのです。
その理解する側ではなく、理解される側からすれば、
「どうして?」
「そんなことないのに。」
「全然、分かっていないよ。」と内心は、思っているかもしれません。
誰が、カテゴライズされることを歓迎するでしょうか。
「理解できない」から「理解しようと試みる」
それらが、人と人の関わりであり、
言語や表情、身体、感性などのあらゆるコミュニケーションを通して、
相手を知ろうとします。
それが、教育を成す上でとても大切なことです。
本来であれば、目の前の我が子の豊かな成長を考え、
その子 もっている才能や能力を最大限に
発揮するための「声掛け」「眼差し」「見守り」の方法や手段が
教育そのものへと変わるはずです。
そして、そのような本来あるべき「人と人の関わり」が、
家庭や学校での「人間教育」の場において、
「基準と違う」=「常識と違う」からと言って、
カテゴライズし、線引きすることは、
私たちが「人としての学ぶ機会」を減らしていると考えてもよいでしょう。
私たちは、「他者と違い」のなかで、自分自身のよさを見つけたり、
発見したりして成長します。
「私に、できることはないかな。」
「今、何を思ったり、感じたりしているのかな。」
「どうやったら伝わるのかな。」
と人と関わる一つ一つの過程で、「人間」について学びます。
そして、向上心のある人は、そこから自分自身の「生き方」を模索します。
「違い」のなかで、どれだけ多くのことを学ぶことができるでしょうか。
「適材適所」という言葉がありますが、
本来社会もそのように成り立つべきだと思います。
各々が自分の得意なことをすることは、自身の成長に直結するだけでなく、
周囲からの承認を自然に得られ、その人だけのもつ唯一無二の
「価値」となるからです。
それは、時に自分から価値を与え、時に相手から価値を与えられる関係です。
そこを媒体するものは、現代社会の常識上にある名誉や立場、富だけではなく、
その人自身の才能や能力であれば、どれだけ豊かな生きた知恵を生む
地域社会になるでしょうか。
そして、生物として生まれ、日々進化している私たちは、
本来、心のどこかでは、そこを求めているのかもしれません。
我が子が、純粋な瞳で、自分ができることを伝えたり、
好奇心の目で、生活の中で発見したものを届けてくれる姿は、
まさに、自分自身をそのまま表現しようとする姿勢であり、とても
自然な状態です。
私たちは、ある一定のカテゴリー(発達障害・学校名)等に子どもを
当てはめて、理解したとして安心するのではなく・・・
正直に素直に、人間として関わる営みや文化を発展させ、
そこを中心において、生きていきたいものです。