「コミュニケーション」はどこへ発展していくのか。文化庁調査「やばい」の使われ方。本来のコミュニケーションは、人として生きるための言語を豊かにし、思考し、共感を生み、人を育てます。

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他者と関わるための「コミュニケーション」は、

人が生きていく上でとても大切なものです。

 

 

親・教育者であれば、そんなことは、百も二百もお分かりだと思います。

ですので、ここでは、「コミュニケーションの上手な図り方!」

という方法論的なことを述べるつもりはございません。

 

私が、今現在、生きているなかで、この「コミュニケーション」ほど

難しいものはないと感じています。

 

 

そもそも、コミュニケーションとは

 

 

(1)社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる。

 

(2)動物どうしの間で行われる、身振りや音声などによる情報伝達。

 

[補説]「コミュニケーション」は、情報の伝達、連絡、通信の意だけではなく、意思の疎通、心の通い合いという意でも使われる。

「親子の―を取る」は親が子に一方的に話すのではなく、親子が互いに理解し合うことであろうし、「夫婦の―がない」という場合は、会話が成り立たない、気持ちが通わない関係をいうのであろう。

 

 

という意味ですが、

このコミュニケーションを円滑に、豊かに発展させていくことは、

私たちの未来そのものに繋がります。

 

 

しかし、

現代において、コミュニケーションの課題が、生物として進化していくうえで、

大きな課題になっていることにお気付きでしょうか。

 

 

時事ドットコム:「やばい」は褒め言葉?=「婚活」「イクメン」も9割浸透−国語世論調査・文化庁

 例えば、この記事

 「やばい」は褒め言葉で定着? 良い音楽やおいしい料理などを「素晴らしい」という意味を込めて「やばい」と表現する人の割合が4分の1を超えたことが17日、文化庁の2014年度「国語に関する世論調査」で分かった。

10代の9割、20代で8割と若者にはほぼ定着。

 

 

私たちは、「言語」を使って相手に情報を伝達します。

上記記事の「やばい」という現代語を見ても、

肯定的な意味と捉えるか、否定的な意味と捉えるかは、

その方のもつ、経験値と属するコミュニティーによって変化してきます。

その他の要素もあります。

 

 

 

また、口語体と文語体の違いでも、伝達が変わってきます。

 

例えば、友人から

 

「このプレゼント、やばい!」

というメールが来たとしましょう。

 

これは、嬉しいのか悲しいのか、この文章を見ただけでは理解ができないのです。

受け手としては、聞き返すか、勝手に解釈するかどちらかの選択しかありません。

 

 

このように、「やばい」「すごい」「ふつう」或いは、

「シェア」「ワクワク」「素敵」と私たちは、日常で何気なく使っている

言葉の多くは、私たちを取り巻くこの社会のあり方に影響を受けています。

 

 

同時に、上記の例からも分かるように、現代では、情報を伝達するのに、

このやりとりを数回するわけですから、とても、時間がかかるのです。

 

メールやLINE、FBのメッセージが「便利」で「早い」というのは

信じがたい事実です。

 

一番、早い方法は、伝え手と受け手の両者が、同じ空間にいて、

表情、仕草、視線、声など相手の「言語」以外の情報から「理解」を図ることです。

 

 

それが、コミュニケーションを図る上で、重要なことであり、

「言語」がそれらの土台になります。

その「言語」が認識できれば、同じように世界を「共感」することが

できます。

その「共感」が生まれるためには、コミュニケーションが

欠かせません。

 

つまり、これがコミュニケーションをとるということです。

 

 

 

それでは、どうでしょうか。

 

生物としてのコミュニケーションが豊かに活発に、社会に溢れだすと、

それだけ言語が豊かな人がいることであり、自然と豊かな社会に繋がります。

 

一方で、言葉が醜くければ、それを発する人も多くなるのですから、

自ずと、その社会も簡素化された、変化のないつまらない社会になります。

 

 

 

では、この違いは何から生まれるのでしょうか。

 

言語数や熟語数の多さではなさそうです。

 

 

 

 

 それは、

 

「思考できるか、できないか。」

 

 この違いです。

 

 

「思考するか、しないか。」

と言い換えてもいいでしょう。

 

例えば、2人が同じ体験をしたとして、その方の「言葉」によって、

どの程度まで深く、広く経験知として認知できるかは、これで決まります。

 

 

時には、感性的な要素もありますが、それを自己認識するのも

この「言語」でしかありません。

 

 

子どもたちを豊かに聡明に、育てたければ、

今すぐ、豊かなコミュニケーションを図ることです。

 

 

多くの「言語」に触れて、子どもの感ずる世界から、

認知を広げ、深めていけるようにすることです。

 

 

決して、外国語を習得することに必死になる必要はないのです。

生まれた土地の「言語」を習得する家庭で、文化や価値を体得

していくのです。

 

それは、生命としてのアイデンティティーを育むのにも役立ちます。

 

 

 

 

「言語」を習得するには、2つの意味があります。

 

1つは、他者に伝えるため。

もう1つは、自己を認識していくためです。

 

この両輪は、人が人として成長していく上で欠かすことのできない

時間と経験になります。

 

 

 

最後に、もう1つ付け加えておかなければなりません。

 

それは、この「言語」は、社会を動かす力があるということです。

その逆も言えます。

 

例えば、「こんな社会にしようかな。」と目論むと、

そのような思考をするような「言語」で人の「認知」を広めればよいのです。

 

 

私たちの、日常で使っている何気なく発する「言語」は、

自分自身を縛っているものではありませんか。

 

そして、思考することを曖昧にしたり、

邪魔をしたりするものではないでしょうか。

 

 

 

私は、よき、そして、豊かな「言語」の使い手に、

今を未来を生きる子どもたちが育ってほしい。

 

 

だから、目の前にいる我が子を含むすべての子どもたちと、

コミュニケーションを自然と図ってしまうのです。

 

 

その質を高めることこそが、どれだけのギフトになるのか、

世のサンタたちは想像しておられるのでしょうか。