物事への「好き」の感度を高めていくことは、価値を見出すこと。

f:id:familylearning-full:20160505082626j:plain

 

 

誰でも、「好き」な物事を見つめるときの

目はいつもと違う目をしています。 

 

そんな目を見たときに、

「あっ、これが好きなんだな。」と私たちは、気づくのです。

 

 

 

「好きこそものの上手なれ」

 

という諺がありますが、「好き」なことを

見つけることが、ものごとの上達に直結しています。

 

「これ、好きだな。」

「あれのここが好き。」

 

好きを追求していくと、結局は、自分らしい選択ができるのだと思います。

 

 

 

子どもの自我が芽生え始めたころから、

「自分の意思で、選ぶ力」を伸ばしていくことが、

この「好き」を極めていく力に繋がるのです。

 

なぜ、物事を好きになると体得が早いのかというと、

まず、モチベーションやそれにかけるパッションが

他の人や他の物事以上に高いことです。

 

100倍は違うでしょう。

 

つまり、夢中になり、集中して時間を使います。

 

 

 

 

 

もう一つは、センスが発揮されることです。

何事も、上手くいかない、難しいと感じることが出てきます。

誰しもが壁にぶつかったという経験はあるのではないでしょうか。

 

 

 

もし、本当にそのものが「好き」であれば、その困難をスルリと乗り越えることが

できるのです。

 

 

違う視点から見ることができたり、タイミングよく物事に向かうから、

心も身体も同じように連動し、あっという間に解決してしまうのです。

 

そこに宿るのが、「センス」です。

 

 

 

その人の高い能力と感性とモチベーションが合わさり、技術が追いついてくれば、

さらに上達していきます。

 

この「好き」という人間の普遍的な能力を、

子どものうちから十分に発揮できた人は、家族に感謝しなければなりませんね。

 

 

「好き」という感性は、磨けば磨くだけ研ぎ澄まされていきます。

 

あなたの「好き」が、他の人にとって、大きな価値に変わるときに、

自信に変わると思います。

 

 

この自信も、他者からどう思われるかということなど気にしなくてもよいのです。

なぜなら、人はいろいろなことを言うからです。

 

 

多数派の意見よりも少数派の意見の方が的を得ているときもあります。

嬉しい一言よりも、胸に突き刺さるような厳しい一言の方が、

価値が高いときがあります。

ですから、結局は、それも含めて自分で考え、感じていくしか方法はないのです。

 

 

 

自分にしか感じられない「好き」という

意思を大事にすることは、自分自身への大きな信頼がなくてはなりません。

 

 

 

自分への信頼を高めていくことは、日常の時間をどのように過ごすか。

そんなシンプルなことなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学びをリスタートできる人は自分の時間を生きる人。

 

f:id:familylearning-full:20160504205653j:plain

 

これから、母になる人たちは、今、どのように

生きているでしょうか。

 

 

2016年5月。目まぐるしく変化する女性観・仕事観・子育て観に、

50年、30年、3年前とはまるで違う大きな波。

 

 

それが私たちの環境を作り、日常の「言葉」に潜んでいることが垣間見られます。

 

 

 

 

 

私は、女性には、いろいろな生き方があってよいと思っています。

 

その時の、自分の人生において、ベストな決断を下すことは、

その人の人生を生きることに繋がるからです。

 

ベストな決断とは、組織や家族、友人、メンター、社会常識などの

「他者」に左右されずに、下す決断のことを言います。

 

未来のことに思いを馳せるならば、

「安心」「安定」を選ぶかもしれません。

 

ワーキングマザーとして、稼ぐ女性への道を選ぶかもしれません。

 

子どもを生み、育てるという道を選ぶかもしれません。

 

 

いつも、今を最大限に努力しつつ、

「どれも同時にやりたい!」

と思うのが心の本音ではないでしょうか。

 

 

私は、どれも人生の内に経験することが、より豊かな成長に繋がると

思っています。

 

 

 

では、これから生きる女性にとって、何を軸として、

周囲に影響を与え、命を育み、決断していくとよいのでしょうか。

 

まず、日本の教育を受けて育ってきた私たちは、

この「現代社会に尽くすこと」を学んできました。

 

仕事だけでなく、溢れんばかりの商業施設や、テレビなどの娯楽番組を見て、

時間を費やすことも、「現代社会に尽くす」ことを意味します。

 

そのように、社会に馴染んで生きることこそが、6歳からスタートした

教育の主たる目的ですから、何一つ不自由もなく生き、

それは決して悪いことではないのです。

 きちんと教育を受けて育ってきたということですから。

 

 

しかし、教育の本来の目的は、

・自己成長をし続ける人を育てること。
・未来の生命体へと良き影響を与える人を育てること。

が本質であると考えます。

 

ですから、実は義務教育を終えた瞬間から本来の「学習」がスタートするのです。

 

 

 

 

私たちは、義務教育中には、学びきることのできなかったいくつかのことを

再度、学び始める必要があるのです。

例えば・・・

自分の才能の見つけ方。

 

他者を思いやる心。

 

疑問をもち、探求しようとするパッション。

 

失敗を修正にかえて、挑戦する行動力。

 

無限の想像力。

 

自分の心の赴くままに表現する喜び。

 

をリスタートさせること。

 

 

 

なぜ、スタートではなく、

リスタートなのかというと、これら全ては、あなたが0歳から6歳までの間に

一度は経験していることだからです。

 

 

子どもは、本能のままに純粋無垢に世界に関わりますが、

私たちは、長き義務教育のおかげで、理性を身に付けたのですから、

本能と理性を上手にバランスを取りながら生きているのです。

 

自分を律するということは、成熟を意味し、甘いも酸っぱいも苦いも

知っているという「強み」があります。

 

 

 

 

 

 

目まぐるしく変化する世の中で

今、何を軸として私たちは、決断を下せばよいのでしょうか。

 

 

それは紛れもなく、

「生物として生きることにおいて心地がよいか。」
「未来に繋がる生命へ豊かな環境を残せるか。」

でしょう。

 

それ以外の選択は、意味がないという可能性があります。

無駄な時間を過ごすよりも、この地球で、自分を高める時間を費やすことが

いかに難しいことか。

 

そのようなことは、当たり前であり、それも含めて人生を彩る必要があるのです。

 

 

そこには、猛烈な生命力が必要となるのです。

人類には、まだまだ秘めた力があるのではないかと

私は疑い、期待しています。

 

 

 

 

 

私は、今、自分がこうしたい!ああしたい!あれが欲しい!

とい私的な欲はありません。それは、これまでにそれらの欲を

満たしてきて、それではないなと気が付いたのです。

 

というよりも、自分だけの幸せでは物足りないくらい

愛おしい存在があるのです。

 

 

人が真剣に学んだり、人が勇気を出して挑戦したり、

人が他者との関わりで成長したり、キラキラした瞳で、疑問をもったり、

解決しようとしたりする姿勢を追うことが、幸せなのです。

 

もっとこうしようと自分でも不思議なくらいに

勝手にアイデアが溢れてきます。それを行動に移すことで、

私は生きています。

 

 

成長は、感化され、刺激を与えるものです。

 

そのような関係性を築けない場合は、本物の成長はなく、

共に居る必要はありません。

 

 

ですから、私は、自分以外のものの成長を本気で願うことは、

他者に意識を向けることでもなく、自分自身にしっかりと

向き合い、イケていない自分も含め、反省し、自己をより高めていくこと

に繋がっているのだと思います

 

 

なぜなら、社会の成長、他者の成長は、自己の成長無くしては

決して実現できないものだからです。

 

 

 

 

 

人は、生物である以上、いつか死を迎えます。

だからこそ、生ある時間を愛おしく尊い時間として捉え、

いつも、今日よりベストを尽くす。

 

それ以上もそれ以下もありません。

 

 

生ある時間とは、他者や社会通念に媚びることなく、

自分の時間を生きるということなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生命力を維持することは、才能を発揮すること。

 

 

f:id:familylearning-full:20160504220500j:plain

 

 

この地球に存在する男性も女性も皆、最高の笑顔で生きていけたら、

それはとても幸せなことだと思います。

 

 

最高の笑顔は、その人の生命力に比例します。

 

 

生命力を保ち、維持するために、人は命をいただきます。

 

 

 

 

先日、日本のある女子大学に行ったときに、

何気なく入った売店、食堂にとてつもない違和感を覚えました。

 

売っている物、買っている物。

 

その選択は消費者である私たちの責任ではありますが、

自分が食べたものが、私を通して、いずれ1人の生命へと繋がっていくことを

女性は、この体を通して生物の知恵として知っているに違いありません。

 

 

けれど、その選択を邪魔するものばかりが溢れている今の日本は、

本当に、「女性進出」を謳い、「未来を担う子どもを育てる」環境なのでしょうか。

 

 

未来を担う人たちが、

今、食べるもの、着るもの、考えることは、

そのまま直接、子どもたちへと還っていくのです。

 

 

ですから、子どもと呼ばれる時代に、「命をいただく」ことへの感度を高めておくことが重要です。

 

当たり前ですが、食べているものが人の身体をつくります。

 

 

子どもは、もともと生命力のかたまりです。

この生命力が、発揮できずに、生きるということは、

自分の最大限の能力、才能を発揮できないということになります。

 

 

人は、自分の能力や才能を発揮できている状態であり、

自分が生みだすものを、他者が自分ごとのように

必要とするときに、(必要とされるとき)に

本当の幸せを感じるのだと思います。

それは、人をステップアップさせ、成長させます。

 

 

 

 

「食べるものは、人の思考を変えていく。」

そして、

「食べる行為は、人の思考をつくる。」

 

 

 

生物として、人間として、命を頂くことは、

それだけ、命がけの行為であることを私たちは忘れてはいけないのです。

 

食卓は、家族の中心になる場所です。

かつて、火を囲んで、集合した家族は、便利さと文明の発展によって、

火からどんどん遠ざかっています。

 

 

 

自分の舌で味を認識し、

自分の鼻で、香りを確認し、

自分の手で命をしめる。

 

 

この素材を感じとる感覚を、0才~6才の間に、しっかりと子どもたちに体得させることは、命を繋いでいく上で、必須の学習であると考えます。

 

 

今、私たちの在る環境から、ほんの少し、意識することで、

人は、変われるものです。

 

 

教育の最大の目的は、人を成長させることですが、

人は、自ら変化し始めなければ、成長できないのです。

 

 

 

生命力を維持することは、自分自身の才能を発揮するための

一番の近道なのです。

 

 

 それは、自己免疫力を高め、病気になった時できるだけ

自己治癒力で直そうとする力が自然に湧くものです。

 

 

本来の自分の生命力を発揮できるような習慣を続けることは、

いつも、自分らしく居られることにつながるのです。

 

 

自分にとって心地よいと思うことは、

もしかすると、今、簡単に手に入り、利便性を追求した

食べものとは異なるかもしれません。

 

 

 

どんな時も、自分の身体によいものを

瞬時に判断できる力を高めておきたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人が変わるとき・人の成長について考えること。

 

f:id:familylearning-full:20160411220947j:plain

 

人は、いつ、いかなる時に成長し、

自分から学びはじめるのでしょうか。

 

机上での勉強や本から得られる知識習得だけでなく、

人との出会いと関わりから学ぶことは豊かで生きた学習になります。

それが、自己の成長の鍵を握ります。

 

人は、赤ちゃんの時から自分の意思をもって、

生きているので、本来、人は自ら学び、成長する生き物なのです。

模倣し、共感し、真似て、学んでいきます。


ですから、教育において自発的・主体的に学習することを掲げることは本来おかしいのです。

なぜなら、人は自発的な生き物だからです。

 人が本来もつ生命感や意欲を少しずつ少しずつ失っていくような学習環境や仕組みに問題があるのです。



親、教育者であれば、子どもに進んでものごとに関わってほしいと誰もが願うでしょう。

そして、自分で考えるようになってほしいと願うでしょう。

 

このような願いがある一方で、

私たちは、行動では、自分のいうことを聞きなさいという風にしか子どもに

伝わっていない現状もあります。

このような直接的な言葉でなくても、行動や視線から気づき、

子どもは感じ取っているのです。

 


子どもの感受性は、今の私たちの数十倍は感度が高いと考えておいた方がよいです。

ただ、それらを含めアウトプットする能力は知識と経験に伴って伸びるので、

熟年者の方が勝っているように受け取られます。

 

 

子どもが 人として成長していくには、
より豊かな出会いが必要不可欠です。

 

人や、出来事、物、本などの出会いです。
この中でも、生きた人間同士から、学ぶことがとても大きいです。

それは、若年者や熟年者という境界線なく、互いに
その出会いによって、学び、影響を受け、高め合っているのです。

人と関わるためには、そこに自分の意思が必ず存在します。
また、不思議と相性といものもあるようで、
今、この人との関わることおいて、無意識だとしても、
何らかの自分の成長を感じるからなのでしょう。


子どもたちは、ある年齢から、グルーピングをするようになります。
それは、共通の体験や言語をもち、自分たちで社会を作っていこうとする健全な発達の一つです。

人は、意思もって相手と共にいます。それが、無意識的であっても
一緒にいて楽しいとか心地よいとか、面白いとか、自分にとって意味があるから行動を共にするのです。

しかし、それすらも、いじめにならないように、
私たちが間に入って、グルーピングを無くすような働きかけ行い、個同志の
豊かな関わりを分断していることはないでしょうか。


危険だから。

傷つくから。未然に防ぐため。


このような対応は、子どもの経験を排除していることで、
子どもを全く信頼しておらず、本当に教育的価値はあるのでしょうか。


子どもたちは、このような経験を経て、自ずと気付くのです。


境界線などないということを。
そして、皆、同じ人間であり、他者であるということを。



他者のことは、自分のことでもあるのです。
そして、グルーピングなど必要なく、そこでの関わりが自分自身の成長に不可欠だいうことを気づき、学んでいくのです。


その拡がりに何を気づき、何を学ぶのかは自分の責任です。

 


最後に子ども特性を一つ述べます。

子どもはよく気付きます。

そして、疑問もちます。

あらゆる場面で、気づくことは自らの出来事や物事に関わっているという証拠ですから、私たちはその芽を摘んではなりません。

人が、変わるときは、自分で気付いた時のみです。

そのことは、親、教育者であるならば心にとめておく必要があります。

人から何をどのよう言わようと、
本当の変化伴わないのです。

私たちは、人が変化するときの
目を見逃してはなりません。

その瞬間が多ければ多いほど、
成長していることになります。


身体や年齢の肉体的な成長ではなく、知的かつ精神的な成長です。


そのために、必要なことは、
人との出会いです。

それを私たちがどれだけ多く、そして豊かに広げていけるでしょうか。
自分自身の生き方を省みて、30年後大きく変わるであろう
社会に生きる子どもたちと関わることが大切なのです。

 




良き友をもちなさい。


この言葉は、私の母がよく口にしていました。

良い友達に囲まれることは、自分を大きく成長させてくれるのです。 










 

子どもたちが現代を生き抜くために必要な力

今、子どもが現代を生き抜くために必要な力とは何でしょうか。

 

私たちは、今、何を教育していく必要があるのでしょうか。

 

f:id:familylearning-full:20160407202602j:plain

 

 

例えば、誰かに、この下に川が流れているよ。

と言われたら、そうなんだ!
と信じて疑わないことではなく、違う可能性も考えてみることです。


どのくらいの深さ?
本当に水があるの?
草かもしれないぞ。
と、思考を働かせることです。

 


つまり、『物事を批判的に見ることを厭わない力』のことです。


本当に必要な力は、学校では教わることはできません。
大衆のための教育は、大衆の中で生きるための社会通念や常識を
身につけることにあります。
それは、子どもが生き抜いていくために、必要な経験知となります。
自分とは違う人との交流は、人を成長させます。

 

しかし、現代には、生物としての普遍的な価値のもとで、
『学ぶということを学ぶこと』のできる学校は未だ存在していないと思っています。
教育する場所は、空間も時間もどこを探してもありません。

本来、それは命を生み育み、互いに成長し合える家庭が担うことであり、
教育とは、そこに『意志』があれば、いつでも誰でもできるのです。

 


自分をいかに成長させるかー
自分の内に秘めた可能性をいかに表現するかー
それは、個の成長だけでなく、人類の進化に繋がります。

他者に評価されることでもなく、
ラベリングされることでもなく、自分が責任をもって、
学びとっていかなければならないことなのです。



麦畑の麦も一本一本違うように、
自ら根を張り、日光の感じる方向へ向かわなければ、
生きていくことはできないはずです。

自身が枯れてしまったのを、農家の主のせいにしますか。

しないでしょう。

伝染病が流行れば、自分だけ違う土地に移りますか。

無理でしょう。

その時に後悔しても遅い。
この地球の土地で生きるということは、そういうことです。
そこから何を見出すのかは、各々の生きる責任でもあります。




今、私たちの周りは、様々な情報が溢れています。

テレビや新聞の他に、インターネット上
あらゆる媒体によって情報は伝達されています。

勿論、どのような事象であっても
発信する側の意識的、無意識的な編集が入っていることは忘れてはなりません。
100%純粋な情報を得ることは難しく、受け手によっても理解の仕方、
感じ方が変わりますので、互いに情報を共有することは、
ほぼ、不可能に近いのです。
そう考えると、正解や正確だと決められている方が不自然に思えます。

 

 

私たちが、この社会で生きていくためには、
情報をどのように扱い、どのような価値基準のもとで
判断し選択していくかを、呼吸することや食事をすることと同じように
生活に中に取り入れていかなければ、生きてはいけないのです。

 

そのためには、まず、物事を批評的に見ることを厭わないことです。


「これは、本当だろうか。」
「こちらの情報をみてみよう。」

と、良い意味で疑い、思慮深く、
情報を鵜呑みにせずに、考えることが大切です。

現代の子どもたちは、いつ、どこで、どのようにして
このようなリテラシーを体得しているのでしょうか。

今、私たちにできること。

家庭で育む力の一つが、物事を批判的に見ることを厭わない
姿勢を育てることです。
そして、子どもの疑問や質問を歓迎することです。

 

 

メディアリテラシーとは】
メディアが形作る現実を批判的(クリティカル)に読み取るとともに、
メディア使って表現していく能力のこと。
メディアの特性や社会的意味を理解し、メディアが送り出す情報を構成されたものとして建設的に批判するとともに、自らの考えなどをメディアを使って表現し、社会に向けて効果的にコミュニケーションをはかることでメディア社会と積極的に付き合うための総合的な能力のことをいう。『メディアリテラシー 世界の現場から』菅谷明子

 


この物事を批判的に見る力は、
あらゆる事象を多角的に捉える力に繋がるのだと、私は今、考えています。

子どもが育つために必要なこと

f:id:familylearning-full:20160402001321j:plain

 
春。
 
今朝も満開に咲く桜を見ながら、花や草木の芽生えに
胸が高鳴ります。
 
私は、日本の春が大好きです。
 
 
 
 この季節が巡ってくる度、人は人との出会いと別れを通して、
成長するのだと確信します。
どちらか一方ではなく、実は、両者共に成長しているのです。
 
 
 
母子関係や家族関係で、
"あなたのことを信頼している"
という絶対的な安心感を、子ども自身が尊敬し、愛する人から感じている時、
自由に考え、行動することができます。
 
 
 そして、他者を思いやり、集中して
自分の好きなことに没頭しています。
 
相手を尊重し、同様に自分自身をしっかりと生きている証なのです。
 
 
 
つまり、自分は、「信頼されるに相応しい人物」であると
自分自身に感じることは、「生きる自信」に繋がっているのだと思います。
 
その人の言動や仕草、言葉の端々に垣間見ることができます。
 
 
それは、一時だけで育まれるものではなく、小さな時間の積み重ねの
極普通の日常生活の中から養われていきます。
 
 
 
 
"信頼"
 
 
"安心感"
 
 
これらは、教育のプロや教育施設であっても、
その代わりを担いきることはできないのです。
 
 
 
 
 
 
そこに必要な要素の一つが「子どもとの距離感」を保つことです。
 
 
近すぎず、遠すぎない距離感です。
 
 
時に人は、近くなりすぎると、相手を理解していると勘違いし、束縛するようになるのではないでしょうか。
 
我が子の全てを理解するなんて、まず不可能なことです。
 
それに加え、相手の成長を止めてしまう可能性もあります。
同時に、子どもに執着することで、自分を苦しめていることさえあるのです。
 
 
 
 
私たちは、子どもの"成長可能性"を、どのくらい広げているでしょうか。
 
 
 本来ならば、この距離感は、子育てを通して、
互いに身体知として体得していることが望ましいです。
 
 核家族以前は、様々な他者が子どもに関わることで、
自然とこの距離感が存在していました。
 
 
また、かつての日本の子育てでは、それらの距離感を「日常の言語」
つまり、会話によって無意識に図っていたのではないかと思います。
 
 
 
日常のコミュニケーション。
謙譲語、尊敬語、丁寧語だけではなく、日本語の豊かな語彙と美しい音です。
 そんな会話が日常で溢れていたのでしょう。
 
 
 現代の暮らしぶりは、私たちが今、何気なく使っている言葉
が反映されていることもまた事実です。
 
 
人と人を結ぶ言語。
 
 
現代を生きる私たちは、その距離感をその時々の子どもの成長に合わせて
意識的に、調節する必要があるのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

子どもを育てる私たちが変わること「才能の発揮」「共に生きる」「守破離」から学ぶこと。次の更新は4月1日です!

私は、「書く」ということから沢山のことを学びました。

人は、アウトプットして初めて自分の考えや疑問を

自分自身で認識できるのだと思います。

 

だから、私たちは、インプットすることで学ぶことを完結させないで、

「表現」し続けることが大切だと気づきました。

 

そして、その「表現」は、自分の日常生活に根ざしています。

生きるなかで、疑問に思ったり、課題を見つけたり、

そうやって、どのような手段であれ、「かたち」にしていくことで、

ふわっとしていたものが、明確になります。

 

私にとっては、言語化することであり、

ある人にとっては、料理をすることであったり、

絵を描くことであったり、

スポーツであったり、

詩を書くことであったり、

音楽であったりします。

 

その方法は、人それぞれであり、人の数だけ存在しています。

この「価値」は、とても尊いものであり、

価値基準は人間がはかれるものではありません。

 

そのことの意味をしっかりと心に留めておきたいです。

また、その表現方法は、変化していく可能性も秘めています。

 

 

では、特別な「才能」がある人のみが、できることなのでしょうか。

それは、違います。

 

才能とは、皆が等しく持っています。

しかし、時代や環境によって、発揮できずに死んでいく人もいます。

 

その才能を、自分で気づくこと。

相手の内にある 才能に気づくこと。

 

そこには、鍛練された心とセンスが必要です。

そうして、ようやく発揮できるのです。

 

それは、自分だけの自己満足ではなく、

他者も、それを求めているという状況に在ります。

 

他者にも自分ごとのように受け止められ、

生きる一部となることです。

 

決して、特別な人でもなく、

特別な機会なども必要ないのです。

 

 

日常で、相手と話をして、新たな価値に気づけたり、

歩いていると、木々が芽吹く様子から春を感じたり、

人と挨拶を交わしたり、

今、呼吸をしていたり、

歩いたり、走ったり、笑ったりすること。

その中にたんまりと溢れています。 

 

それって、とても幸せなことです。

 

そんなことが幸せ?

 

と思われるかもしれませんが、

本当は、とても幸せなことです。

 

なぜなら、それを自分で感じとるだけの感性と思考力

が働いているからです。

 

 

 

私は、最近になってようやく気づけたことがあります。

 

それは、子の成長は、自分の成長であり、

子の幸せは、自分の幸せであるということです。

 

しかし、ずっと書いてきていますが、

子と親は、人格は別ですので、「所有物」ではありません。

自分の思いや考えを押し付けるのではなく、

自分の「軸」をしっかりともち、

そこに私が生きることで、導いていくことしかできないのです。

 

コントロールすることでもなく、

ただただ、「共に生きる」という言葉でしか、今は表現できません。

 

 

 

そして、もう一つ、子どもを育てるならば、

心の片隅に置いておきたいことがあります。

 

それは、「人は必ず離れるときがくる」ということです。

 

人は、永遠に共にいられることはできません。

どんなに大切な人とも、どれだけ愛する人とも、

どれだけ手をかけ、時間を共にした人とも、

必ず最後は、離れ、「個」として存在します。

 

ですから、自分がいなくても、

「自分で自分のことを成長させることのできる学びを継続し続ける人」

を育てなくてはなりません。

自分の感性でものを見て、自分で考え、自分で挑戦することのできる人です。

 

そして、「他者と豊かな関わりを育むことのできる」人を育てることです。

それは、私たち以外の人との関わりを含みます。

 

 

守破離

  1. 剣道や茶道などで、修業における段階を示したもの。「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。

 という言葉がありますが、

「守」は、現在の日本の教育の中心になっていることです。

さらに、私たちの教育を高いところに引き上げていくならば、

私たち自身が、「破」を受け入れられること、

また、「離」を歓迎し、互いに喜び合うことだと思います。

 

それは、その人の行動となり、言葉となります。

そして、人格の形成に繋がります。

 

 200年後に、どのような子どもたちが育っているのか。

そこを、考えて「今」を生きること。

 

私たちは、過去でも未来でもなく、「今」しか生きられず、

後悔せずに、「生きたっ!」と心の奥底から実感して、

命の時間をつかい切りたいです。

 

 

 

 

~~~~~~~~~~~~☆☆お知らせ☆☆~~~~~~~~~~~~

 

次の、ファミリーラーニングフルの記事の更新は、4月1日になります。

 今より、言葉を精選し、吟味し、紡いでいけるように、

パワーアップして、  チューリップが咲くころ、またここでお会いしましょう!!

 

f:id:familylearning-full:20160301200354j:plain

 

 ご拝読ありがとうございました。