子ども自らの自己実現に向かう欲求を引き出すためには、私たちがそのように生きていることでしか導くことはできないのです。

「モチベーションを上げるにはどうすればいいのだろうか。」

「子どものやる気を高めるために。」

 

どこの家庭でも、一度は、悩み考え、話題にしたことがあるのではないでしょうか。

 

そもそも、この言葉に非常に違和感を感じます。

なぜなら、子どもは、本来、「学びたい!」「知りたい!」

という探求心と想像力をもっているからです。

この自ら沸き起こってくる衝動のようなものを、自然に引き出せる環境であれば、

勝手に、学び始めます。

 

しかし、なぜ今、このように「やる気」「モチベーション」から来る

「意欲の低下」が、言われているのでしょうか。

 

 

前回、記事の中でマズローの五段階欲求を挙げ、

人は、生物である以上これらの「欲求」をもっていると述べました。

 

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日本も戦後は、生理的欲求、安全欲求を満たすたすことが

「豊かに」いきる時代でした。

着るもの、食べるものが十分にあれば、それは自己を満たすことに繋がりました。

そして、そのような状況に我が身を置くために、

一生懸命試行錯誤したのだと話を伺ったことがあります。

 

 

高度経済成長期になると、組織に所属し、そこでの成果を上げ、

「○○に勤めることが出来たら一生安泰ね。」

と社会的な立場や所属の欲求が強くなりました。

 

だからこそ、我が子を、少しでも良い偏差値の学校へ入れて、大企業に入る。

それが、「豊かに」生きることだと認識していたでしょう。

 

 もちろん、義務教育では、そのころの社会を念頭において、

その社会が上手く回るように、

学校という場で、子どもを教育してきました。

 

 

ふと、今、社会を見まわしたときに、

その時の時代で、生み出されたもので溢れていることに気付きます。

人よりも沢山、所持していることが、「豊かさ」であると認識してきました。

 

そして、私たちは、そのために自らの「モチベーション」「やる気」

を奮い立たせて、時間を使ってきました。

 

それは、生きることに直結しています。

 

 

さて、義務教育を見渡して見ると、子どもたちの目の前には、

ニンジンがぶら下げてあり、それをクリアしたら

報酬を得て、それが喜びに代わる体験を十分にさせてきました。

 

「これが正解ですよ。」

「いくつ○が付きましたか。」

「これが決まりですからね。」

「みんなで仲良くするのですよ。」

 

自分の時間どころか、コントロールされることを

学んでいるようにさえ感じられます。

 

それは、次々に展開されます。

 

 

 

今、現在の「豊かさ」とは、どのようなことを言うのかと

考えてみた時、「忙しい」とせっせと働くことがあなたの「豊かさ」でしょうか。

 子どもの教育費を賄うために。

 

ちなみに、教育機関への公的な教育支出は、

OECDによる結果、加盟国の内、日本は最下位です。

教育費をもっと、上げれば質が上がるという声も多く挙がっていますが、

「教育費」以上にその「仕組み」や「目的」を再定義し直す

必要があると思います。

 

 

そして、子どもたちは、このようにせっせと働く大人を見て、

どのように感じているのでしょうか。

 

いつしか、自ら内発的な欲求に促されて行動していた自分を客観視するようになり、

矛盾の中での葛藤を経験し、現在の社会に適応して生きていきます。

そこで自らの生きる「欲求」を消費していることにも気が付きます。

親・教育者であれば、子どもの教育環境が現在、

そのように置かれていることは容易に想像できると思います。

それに加え、外的な動機付けによって、自らを満たす経験をしているので、

当たり前です。

 

「欲求」は、外部から触発されて、生み出されるものではなく、

本来は、自ら内発的に沸き起ってくるものです。

 

 

本当に、子ども自らの自己実現に向かう「内発的な欲求」

を満たしていくのであれば、

親・教育者自身がそのように生きていなければ、

それを教え、導くことが出来ないのです。

 

 

それは、同時に、自らの内発的な欲求に素直に向き合い、

理性で、コントロールすることを学ばねばなりません。

 

もう既に、そのようにして生きている子どもをいます。

大人であっても、そのように生きていない人もいます。

 

その先にある、自己実現に向かう過程そのものが、本来の学びであり、

それは、同時に自らの生きる社会のためにもなります。

 

最後に、これらには「これだ」という良き方法論はないと思っています。

なぜなら、それを自らが開拓しようと学ぶことそのものが、

「学び」となるからです。

 

これまで、物質的なものを獲得することを「豊かさ」だと

教育によって、認識させられていたことに気付けば、

私たちの後世が生きる社会での「豊かさ」を探求してみたいと思うものです。