平等に教育するということ

 

教育における「平等」とは、なんでしょう。

 

「兄弟平等に子育てをする。」

「平等に子どもたちをみるべきだ。」とよく耳にします。

 

教育基本法の第4条のなかでは、以下のように記されます。

 

 第4条(教育の機会均等)すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。

2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。 3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

 

 

 

 

私は、平等に教育を受ける機会は、整えられても、

平等に教育を施すということは、不可能なことだと考えています。

 

なぜなら、人は、1人1人違うからです。

才能も、能力も、素質も、すべて個の内に秘めているものが「違う」のです。

 

それが、ひき出されることが、教育の役割ですが、

どちらかというと、現在の教育では、知識や判断力を鍛えることに

重きをおくことになっています。

 

すると、人は、外部からの情報を「どのように受け取るか」ということに

力を注ぎます。

 

しかし、情報の受け取りに関しては、100%純粋に、的確に、

「意図」や「意思」が通じるということは難しく、

それが可能になる場合、とても高度な技能をもつ「受け取り手」になります。

そのような相手の意思や意図をくるいなく理解できる人は、

とても、コミュニケーション能力に長けていると言えます。

 

 

そして、もう1つ、付け加えておくとすれば、

 情報をインプットする段階では、100人の個がいれば

100通り存在しているということです。

 

つまり、享受することは、人それぞれ違う作業なのです。

 

しかし、現在の教育では、アウトプットする際、

ひとしく「同じ」であることが求められるのです。

そこに対するアプローチが重要視されます。

なぜなら、一定の情報を個の中に入れておく必要があるからです。

 それが、後に常識となり、社会的な営みを可能にします。

 

ここで重要なことは、私たちは、その社会的営みを可能にする

常識が、必ずしも、私たちのヒトとしての成長や豊かさとは、

一致するものではないということです。

ですから、人は、生涯において批評的かつ自主的な態度が現代を生きる上での

必要なスキルになります。

 

 

人は、言語化しアウトプットしてはじめて、

理解しているという能力と身体性の事実を、上手くつかっていると思います。

 

 

そうなると、個の内で、インプットとアウトプットの狭間で矛盾や葛藤が

生じることになります。

はじめは、疑問を感じるようになりますが、すぐに慣れてしまいます。

それも人の特徴です。

 

慣れることで、生き続けることができます。

人は、大衆のなかで生きていく社会的な動物であり、

本能がそのようにすることで「生」を保つのです。

 

 

 最後に、

私が考える「平等」な教育とは、知識を享受するインプットの段階で、

個に応じた言葉や情報をなげることと、

表現するアウトプットの段階を個に応じて、表現できることが

「能力に応じた平等な教育」だということです。

 

 

むしろ、教育基本法だけに記された、社会的な人間の営みのなかで、

社会的身分や地位における教育機会の「平等」は、

生物として備わった個の能力に応じた教育になっておらず、

むしろ、開花を遅くしたり、蓋をしたりする可能性があるのだと考えます。

 

それは、人としての今ある「状況」によって判断するという話ではなく、

ヒトとしての能力に対する可能性の領域の「平等」です。

 

 

そのようにして見たとき、差別ではなく、区別して行われる必要性も感じます。

個々をきちんと区別して、今、個に必要な教育的機会、助言、援助を、

一対一、あるいは、集団のなかで、先見の目をもち、見抜いて、

教育を施すことが大切です。

それは、家庭も学校も同様です。

 

 

平等にということは、皆「ひとしく同じ機会を」ということではありません。

平等にということは、個々に「違った機会を」ということです。

 

この世に生まれ出て、誰一人、同じ人はいません。

その真理を知れば、異なる状況や環境のなかで、人は、自己を成長させ、人格の形成を図ることができるのです。

 

それが、教育の一番の目的です。

 

自己成長は、結局、個の内での気付きや、自主性がなければ、動き出しません。

そして、誰かの管理・監視下では、伸ばし、開花させることができないのです。

 

人は、外部からそのようなことをされなくても、自分で自分を疑い、

信じながら、確信を得て、成長するのです。

褒められたり、叱られたりする過程も大切ですが、

やはり、自分で自分を成長させることにおいて、

人は、一番の責任を負わなければなりません。

 

あなたを取り巻く環境のなかで、

今現在もたくさんの責任が課せられていると思います。

それは大人と呼ばれるになるにつれて、増えていくのです。

 

教育においては、一番優先させるべきことは、

「自己成長」の責任だということを私たちは忘れてはならないのです。