「義務教育」見直し、フリースクール・不登校の「根本」はどこにあるのだろうか。私たちの「教育」はどこへ向かっているのか。

2015年現在、「義務教育」が1941以降見直され、フリースクールや家庭での学習を「多様な教育の機会の確保」を目的に認めようとされている。

教育新聞 http://www.kyobun.co.jp/news/20150604_01.html

フリースクールとは:不登校の小中高校生らが学習指導を受けたり、体験活動をしたりする民間施設。30年ほど前から広まった。教科の選択などに生徒の自主性を重視する学習法を行い、従来の学校のような管理や評価などを行わない教育施設。

 

仕組みとしては、本人・保護者が、フリースクールNPO法人、学校などの助言を得て、「個別学習指導計画」を作成し、認定されると、計画に基づき、スクールソーシャルワーカーや市町村教委の支援委員が定期的に訪問し、学習に関するアドバイスをするなどの支援を行い、学習の質を保証するという枠組みになっています。計画通りに学習が修了すると、学校からの卒業証書に代わり、教委から修了認定証が与えられるそうです。

「学校などの助言を得て」

「個別指導計画」

「訪問」

「計画通りに学習が修了」

このあたりに、「多様な教育機会」を目的からずれば、疑問を感じずにはいられません。

そもそも、ここでの「多様」とは何を示すのでしょうか。

私のフリースクールに通っていた友人は、近くの小学校に籍だけを残して「不登校」としてフリースクールに通っていました。それが、「義務教育」の範囲内に入るので、一見、とてもよいことのように思えます。

 

しかし、「個別指導計画」をもとに、訪問にきたり、「計画通り修了すれば」とその計画は教育委員会の助言をもとにしたりしている所に、「多様な教育的な価値」は存在するのでしょうか。

結局は、「義務教育」の範囲を広げ、日本の国の制約のなかで、教育されることになります。

国の中に、これまでは、「義務教育を受けているもの」と「独自の教育観によって教育を受けているもの」と「多様な」状況だったのを、一本化し、「義務教育」という名の下で、教育が進められるのではないのかと懸念しています。

 

 

 

また、このような流れにおいて、「義務教育制度」について、疑問をもっておられる方も多いのではないでしょうか。

その一つに、最近目にした記事があります。2015年11月6日、堀江貴文氏は、

『自殺率増加の一因は「義務教育で同一学年の同じ地域の子どもを9年間も集団生活させていること」だとし、根本から義務教育を見直す必要性を訴えている。』との記事。

 http://weblog.horiemon.com/100blog/33905/

 

(以下抜粋)

>個人の能力って、足が速い遅いとか、頭がいい悪いとか、クリエイティブの才能がある、もしくは全くないとか、いろいろまだらにあると思うんです。そういう子どもたちをゴチャッと30人にまとめて9年間ずっと一緒です!っていうと、多分、息詰まっちゃう子どもとかもたくさん出てくるような。もちろんそこで対応できる子たちの方がマジョリティだと思いますけど、そういう子たちの逃げ道みたいなものが、全くないというか。(中略)

 

これらの、根本とは、何を示すのか分からないが、確かに「義務教育」を再構成して考え直す時代にきているのだろう。

上記ついては、1人1人がもつ「能力」「素質」「才能」がバラバラでゴチャッといるから、面白いと思うのです。その違いがあるからこそ、学べるのだと思います。どれだけの月日を共に過ごすかは、良い面と悪い面があります。

それに、誰だって、逃げたくなったり、さぼったりしたくなるのだから、その逃げ道をわざわざ「仕組み」としてつくっておく必要はあるのでしょうか。理由は、人には、怠けたいときもあれば、とてもやる気が出てくるときもある。何かのきっかけや出会いのタイミングで人は大きく成長するときがあります。

そして、それは、誰にも分からないということです。それは、「可能性」でしかなく、それをその時期だからと言って、こうだと決めつけてしまうことこそ、能力の開花に繋がらないと考えます。それは、我が子を信じるしかないです。

 

 

例えば、働きアリだって、100のアリが今、生活しているとして、20の働き者のアリ、60の平凡なアリ、20の怠け者のアリ。働き者のアリばかりを集めても、やはり、20:60:20に分かれた。逆でもそれが言えると本で読んだことがあります。

これは生物として「持続可能な社会」に発展していくための変わりない事実なのでしょう。

どこに属していても、今、その時点において、その子らしく生きていることは、とても重要なことです。好きなことを、好きなようにできる自由は、同時に負荷をかけながらやっていくことで才能は磨かれていくのだと思います。

 

話を戻すと、義務教育下において、日本はある一定の水準(読み・書き・計算などの知識・技能的なもの)までは確保してきました。

私も、人生の節目節目に、恩師に出会って、人生の選択をしてきたことは、誇りに思っています。

人間は、どんな場所であれ、どんな制度化された時間であっても、そこに「意志」と「意欲」があれば、どこでも、私は、自己成長できると信じています。

このシステムが嫌だとか、違うとか言うならば、「今、ここから新しく提案して、自分から発信していけば、良い。」そうやって試行錯誤できる人になっていたいと思います。

一方で、このような楽観的な考えだけではなく、「義務教育」という場所については、

今後、建設的な対話が必要とされることは間違いないだろうし、それは、国、教育委員会、学校、教師に求めるだけではなく、目の前の我が子を「教育」するのは、自分だという自覚をもち、様々な情報を自ら獲得し、我が子に接していくしか方法はありません。この自由な選択枠は、一見、自由に見えるけれども、不自由である可能性はあります。だからこそ、考えなければなりません。

 

最後に、ここで一番言いたいことは、

どれほどのシステムや制度が整ったからといって、その教育に携わる者が育ってなければ、意味がないということである。

それを言っていたら、議論などできないというかもしれないが、これは真実であると思っています。

 

「何をするか」「どのようにするか」

とういこと以上に

「誰がやるか」「誰とやるのか」

は、教育においては最重要項目です。

 

そして、そこまでは、誰もコントロールできません。

その人自身がどのような価値で、子どもに関わっているのか。眼差し、言葉がけ、すべて丸ごとが影響するので、

「その人自身が、どう生きているか」が、後世に生きる子供たちに、直接ダイレクトに響くということを、教育者(親・教師・地域の社会全ての大人と呼ばれる人)は、決して忘れないでほしい。

 

そこには、「どんな制度があるのか」よりも、「人が人と共に育つ上で大切なものやことが溢れているか」という視点で、どんな環境であれ、時に反面教師としながら学んでいくことも立派な学びであると私は考えます。

 

 以下、書いていて疑問に思ったこと。

(1)なぜ「不登校」が悪いとイメージされているのか

(2)なぜ「発達障害」が問題視され、悪いされているのか

(3)フリースクールを義務教育化することは、多様化を受け入れることに繋がらない のではないか

 

これらについては、アンテナをはって考え続けていきたいと思う。

それには、「そもそも」という、私たちの原点に戻って、対話を進めていくことが求められる。

最後に、「教育」の課題は、ただ、「それだけ」を切り取っても、「根本の」解決に至らない。なぜなら、全てが繋がっているからである。

 

私たちの「教育」を自分たちの手に取り戻し、「根本」から問い直し、再構築していく必要があるのかもしれない。