子どもの「根拠のない自信」はどこからくるのか。「発達の最近接領域」をヒントに、生まれもった「能力」を発揮させる術を探る。その可能性を見出すことは私たちの使命の一つです。

日常で、あなたは、どんな「道具」を使って考えたり、

アイディアを出したりしていますか。

 

人類の歴史のなかで、使う「道具」が変われば、

見える世界も変わりますし、考え方も変わります。

よって、生物の長い歴史のなかで、その時々の「道具」を見ることによって、

その人達がどのように思考し、アイディアを出していたのか、

どのようなものに「価値」をおいていたのかを読み取ることができます。

 

 

個の能力を1つ見ても、人が、思考し、学ぶ上で、

何を「道具」として使っているかが

「能力」の発揮の仕方に影響を及ぼしていることに気付きます。

 

例えば、どんなペンで書くのか、

どの質感のノートで書くのか、

どのパソコンを使うのか、

どの人と一緒にいるのか、

空間の配置、照明、音など、環境は様々な状況が考えられます。

 

 

このような外的な環境における「道具」

(ここでは、物以外に人も含む意味として捉えている)

が、その場での「思考」に大きく影響しています。

 

 

 

私は、個の能力は、その人がもって生まれた素質・才能など

個の内側にあるものは、生物として差ほど変わらないと思っています。

この言い方は誤解があるかもしれませんね。

 

勿論、人によって、得意なこと、不得意なことなどの

能力のバラつきはありますし、

「この光る才能はなんだ!」と目を見開いて見つめてしまうことも多々あります。

ですから、生命としての大きな枠内で、差ほど変わりはないと思っています。

 

 

では、何が違うかと言うと、

 

「周囲の環境や状況から学ぶセンス」が

あるかどうかで、個の能力に差が生まれるということです。

 

 

ロシアの心理学者ヴィコツキーは、「発達の最近接領域」を言いましたが、

まさに、それと近いところがあります。

最近接発達領域(ZPD) 

 

 

 

二つの発達水準の内の一つは、子どもの現在の発達水準であり、

過去の教育の結果、獲得したものであり、以後の教育を規定すると考えられる領域を示します。

つまり、子どもが与えられた問題や技能を自主的に解決することができる領域のことを呼びます。


もうひとつの水準として、その領域に近接し、子どもが過去の教育の結果として、自主的には解決できない問題や技能であっても、大人が適切な助言や指導・助力を与えれば解決に成功できる領域があります。

この領域のことを「発達の最近接領域」と言います。

 

 

私は、この手助けしたり、援助したりしてできるようになることが成長であり、

それが教育であり、それは間違いのないことです。

必ず、その指導や助言によってできる可能性は上がります。

 

その発達の最近接領域のなかにあるのが、

道具であり、親であり、教育者であると考えています。

 

そのように考えると、

その顕在化された結果が、個のもつ能力なのか、

繋がりのなかで生まれた能力なのか、

その発揮される「能力」の所在が曖昧になります。

 

しかし、私たちが人を評価する際、

一定の規準があり、それに基づいて評価します。

ですので、「今現在」その規準に対してどうかを判断することになります。

 

しかし、子どもにとっては、人として生きる上で

あまり、重要ではないのです。

 

それよりも、自分の能力を

「自分の能力と外部環境も含めた可能性の領域」で

捉えられていることが、大切なことであり、

それが「自信」に繋がると考えています。

 

「僕、できるよ!」

「どうしたらできるかな。う~ん、ああ、すれば・・・」

「あの人とだったら、できるはず!」

「やってみたい!」

 

よく、「根拠のない自信」と言われますが、それでいいのです。

子どもには、その「自信」を育むことが、大切です。

 

以前、未来へ思考を移すことができるのは、

「子ども性」であると記事で述べましたが、

その思考も、上記の領域に含まれます。

 どんな時代を生き抜いていても「未来へ」思考を移すことができるのが「子ども性」である。「被災地」「被爆国」の「被」から考える。 - familylearning-fullの日記

 

 

 

これから、出会う全ての「事・人・もの」を

つかっていくことのできるセンスを磨くことが重要です。

 

 

なぜなら、その「道具」は、あなたを新しい思考へ導く可能性もあるからです。

そのような環境に身を置いたら、自分でも気がつかなかった才能が

溢れていたという   そのような状況になることもあります。

 

私たちは、無限に変わる可能性を持ち備えており、

能力の発揮の仕方は、出会いとタイミングによって、

発揮されることを生物としての記憶で知っているような気がしてなりません。

 

 

なぜなら、その瞬間に出会った子どもの表情は、

驚きと、嬉しさと、誇らしさで満ち溢れているからです。

 

 

そうしたら、私たちは、観察し、すかさずに『言語化』していく必要があります。

肯定的な言葉を掛ける、あるいは、フィードバックすることで、

その体験が、経験に変わり、享受される可能性が高くなります。

 

つまり、そのような体験を学びとして、獲得していく上で、

「言語化」が重要な役割を果たします。

これについては、この記事では語りつくせないので、また次回。

 

 

子どもの能力を捉える時に、

その可能性をも含めた領域のなかでみとり、

子どもたちには、自分の能力を発揮する「学び方」「つかい方」「交渉の仕方」

を同時に育んでいくことが、重要なのです。

 

 

 

そして、私たちの生物としてもっている能力が、

社会で生きていく故、抑圧的になっていることにも気付くべきです。

 

 

抑圧させられているという表現の方が正しいかもしれません。

それらは、普遍的な価値ではなく、時代によって大きく揺れ動くものです。

つまり、生まれた瞬間から教育は始まっており、

意識せずとも、思考していることが、今、現在もあります。

 

本来の学びは、そのような外的アプローチによるインプット

ばかりではありません。

 

自分のある状況を見極めて、

アウトプットし、解放していく過程も学びの一つなのです。

 

それは、無意識にしている行為を、意識化し、

顕在化していく行動でもあります。