どんな時代を生き抜いていても「未来へ」思考を移すことができるのが「子ども性」である。「被災地」「被爆国」の「被」から考える。

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今、仮設住宅で暮らす子どもたちは、どうしているのだろうか。

 

支援のバトン手から手へ 中学生が仮設清掃 | 河北新報オンラインニュース

(2015.11.07)

「今後も継続」「復興支援活動」

 

「また転居?」母たちの悲鳴 福島自主避難者「住宅無償」停止へ | 特報面 | 朝夕刊 | 中日新聞プラス  (2015.11.12)

「私たちは被害者なのに」

 

仮設住宅で暮らすということは、児童・生徒たちにとって、過酷な場所だということは、百も承知で以下を述べます。

幼少児にとっては、自由に遊ぶ場所も十分にないだろうし、

中学・高校生は、密集・固定した場所での生活は息苦しいだろう。

 

事実、私は、震災を経験した子が書いた作文を見た時に、

言葉にならない思いが込み上げてきたし、それでも事実を淡々と述べる姿に、

人間の強さを初めて感じました。

 

震災後は、「なんとかしなくては」と周囲の大人も必死になり、

子どもたちの「生活する場」を確保しようとしていました。

土が危ないとなれば、遠くの町から、トラックで土を運んで、

砂場遊びや植物を育てることを継続されている場所もあります。

 

しかし、2015年、仮設住宅での生活に慣れてきた

子供たちの「夢」が大きく変化してきたそうです。

 

「ぼくも、自分で家を建てたい。家族が住める家を作ってみんなで暮らしたい。」

と働く大人を見て、そんなことを呟いた子。

 

どんな時代を生き抜いていても、「未来へ」と思考を移すことができるのが

「子ども性」である。

 

そして、私は、その話を聞かせてくれた現地で教育に携わっている方に、

今、子供たちがどのような「夢」をもっているのか

純粋に知りたかったので尋ねた。(2015年9月)

 

すると、彼は、懸念な顔を浮かべて、口を開いた。

 

「もう、夢なんてありませんよ、そこが一番困っていることなのです。」

驚くべき返答。

 

その地域の仮設住宅に住む方は、働かなくても

生活できるという現状にあるそうです。

そして、その姿を見て子どもは、育ちます。

子どもが「夢をもつ・もたない」ということは、重要ではなく、全員がそうではないと思います。

 

 

ここで述べたいことは、私たちの生活する地が

被災地」と言われていることを考え直してみたいのです。

 

 

「被」とは、~される、行為をこうむる。~を身に受ける。という意味があります。

  1. [接頭]行為を表す漢語に付いて他から…される、他からその行為をこうむる、などの意を表す。
  2. よくないことを身に受ける。こうむる。「被害被災被弾被爆

 

それは、身近で震災に合い、もちろんその後の支援が必要なことなのは、

百も承知です。

引き受けたと同時に、その機会をどのように使うかということを

考えなければならず、「今」だけではなく「後世へ」という視点で

考えるならば、次の一手が変わるかもしれないと言う事です。

 

そして、日本という国の「被」を考えるならば、

世界で唯一の被爆国であると教わってきた(教育されている)

私たちは、生まれてから「被」という環境のなかで生きてきました。

 

「被」とは「~される」環境であると言い換えられると思います。

 

私の祖父も、1945年8月6日その時に広島にいて、

それまで写真家として仕事をしていました。

8月5日に、カーテンを黒から白に変えたそうです。

それが、多くの死体に積み上げられたなかで、最後の一声を

出せた要因だと母から聞きました。多くは語らなかったけれど、

ガラスの破片が刺さった跡が、その事実として認識したことを記憶しています。

 

幼いながら「おじいちゃん、かわいそう」と思いました。

「かわいそう」=「被ったこと」を。

 

それは同時に、「祖父と繋がる私もかわいそう」だという自己認識に繋がります。

 

もう一つ言うならば、自らの可能性に蓋をしているという事実にも気付きます。

 

「与えられる」ということは、幻想であり、現在の価値なんて、

後世において必ず変わっています。

 

もう、そのような発想はやめて、「自力で生き抜く時代」です。

これは、新しい価値を創造するということでもあります。

他力を頼って生きているよりも、きっと、

自力で思い切り生きた方が生物だし楽しいに決まっています。

 

それは決して、恐れることではないし、それが常識でしょう。

人間の知恵なんて、100年、200年でこのくらいのことなのだから、

地球で生きていくならば、発想を変えて歩みださなくちゃ。

 

その自力から生まれた知恵が、

新しい智恵を創りだす原動力になるのですから。

 

それだけの可能性があることに、

どれだけの人が気付いておられるのでしょうか。