どんな時代を生き抜いていても「未来へ」思考を移すことができるのが「子ども性」である。「被災地」「被爆国」の「被」から考える。
今、仮設住宅で暮らす子どもたちは、どうしているのだろうか。
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(2015.11.07)
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「私たちは被害者なのに」
仮設住宅で暮らすということは、児童・生徒たちにとって、過酷な場所だということは、百も承知で以下を述べます。
幼少児にとっては、自由に遊ぶ場所も十分にないだろうし、
中学・高校生は、密集・固定した場所での生活は息苦しいだろう。
事実、私は、震災を経験した子が書いた作文を見た時に、
言葉にならない思いが込み上げてきたし、それでも事実を淡々と述べる姿に、
人間の強さを初めて感じました。
震災後は、「なんとかしなくては」と周囲の大人も必死になり、
子どもたちの「生活する場」を確保しようとしていました。
土が危ないとなれば、遠くの町から、トラックで土を運んで、
砂場遊びや植物を育てることを継続されている場所もあります。
しかし、2015年、仮設住宅での生活に慣れてきた
子供たちの「夢」が大きく変化してきたそうです。
「ぼくも、自分で家を建てたい。家族が住める家を作ってみんなで暮らしたい。」
と働く大人を見て、そんなことを呟いた子。
どんな時代を生き抜いていても、「未来へ」と思考を移すことができるのが
「子ども性」である。
そして、私は、その話を聞かせてくれた現地で教育に携わっている方に、
今、子供たちがどのような「夢」をもっているのか
純粋に知りたかったので尋ねた。(2015年9月)
すると、彼は、懸念な顔を浮かべて、口を開いた。
「もう、夢なんてありませんよ、そこが一番困っていることなのです。」
驚くべき返答。
その地域の仮設住宅に住む方は、働かなくても
生活できるという現状にあるそうです。
そして、その姿を見て子どもは、育ちます。
子どもが「夢をもつ・もたない」ということは、重要ではなく、全員がそうではないと思います。
ここで述べたいことは、私たちの生活する地が
「被災地」と言われていることを考え直してみたいのです。
「被」とは、~される、行為をこうむる。~を身に受ける。という意味があります。
それは、身近で震災に合い、もちろんその後の支援が必要なことなのは、
百も承知です。
引き受けたと同時に、その機会をどのように使うかということを
考えなければならず、「今」だけではなく「後世へ」という視点で
考えるならば、次の一手が変わるかもしれないと言う事です。
そして、日本という国の「被」を考えるならば、
世界で唯一の被爆国であると教わってきた(教育されている)
私たちは、生まれてから「被」という環境のなかで生きてきました。
「被」とは「~される」環境であると言い換えられると思います。
私の祖父も、1945年8月6日その時に広島にいて、
それまで写真家として仕事をしていました。
8月5日に、カーテンを黒から白に変えたそうです。
それが、多くの死体に積み上げられたなかで、最後の一声を
出せた要因だと母から聞きました。多くは語らなかったけれど、
ガラスの破片が刺さった跡が、その事実として認識したことを記憶しています。
幼いながら「おじいちゃん、かわいそう」と思いました。
「かわいそう」=「被ったこと」を。
それは同時に、「祖父と繋がる私もかわいそう」だという自己認識に繋がります。
もう一つ言うならば、自らの可能性に蓋をしているという事実にも気付きます。
「与えられる」ということは、幻想であり、現在の価値なんて、
後世において必ず変わっています。
もう、そのような発想はやめて、「自力で生き抜く時代」です。
これは、新しい価値を創造するということでもあります。
他力を頼って生きているよりも、きっと、
自力で思い切り生きた方が生物だし楽しいに決まっています。
それは決して、恐れることではないし、それが常識でしょう。
人間の知恵なんて、100年、200年でこのくらいのことなのだから、
地球で生きていくならば、発想を変えて歩みださなくちゃ。
その自力から生まれた知恵が、
新しい智恵を創りだす原動力になるのですから。
それだけの可能性があることに、
どれだけの人が気付いておられるのでしょうか。