「無知の知」から始まった学びは「探求心」へと発展する。現代において「無知の知」は何を意味するのだろうか。
ここ数日、様々な年齢層の方とお話し、
感じていることがあるので、ここに記しておきます。
知っているふりをして、知ったように話す人どれだけ多いことでしょう。
違うと解っていて、正しいことのように話す人もいらっしゃいます。
そして、自分の言葉を持ち、お話する人が如何に少ないことでしょう。
私は、ここでその方たちを批判したいのではありません。
事実と、5年、10年、50年、100年後に生きる人たちに知っておいてほしい。
と同時に、私自身への問かけでもあります。
私たちは、まず、知らないということを、知るべきではないでしょうか。
真の知への探求は、まず自分が無知であることを知ることから始まるということ。
という言葉を言っていますが、
それだけではなく、知らないことを知った上で、さらに
自らの探求心と、好奇心で、自分の目で見て、聞いて、
感じるべきと考えます。
なぜならば、2015年現代の社会を生き抜こうとするならば、
知らないということは、決して悪いことではないけれど、
人間を人間らしく生きられないようする社会
を創ろうとしている人たちに、加担していることになるからです。
どの時代を生きても、悪い人も善い人もいるのです。
物事には、裏と表の両面があります。
けれど、人々は言います。
「私は、知っています。~ということでしょ。」
では、その方に問います。
知らないということが、なぜ悪いことなのでしょうか。
知らないということを、知らないと認識することは、
それほど、怖いことなのでしょうか。
何を、恐れているのでしょうか。
私の命が終わりを迎えるときに、全てを知ることは出来ません。
それは、あなたも同様です。
しかし、自ら探求し、知ろうとすることは、
私にとっては、生きることそのものです。
先日、植えたばかりの球根の土の中から出てきた
ダンゴ虫の足の数が何本だとか。
なぜ、風に舞っていたこの美しいと感じる葉は、
黄緑とオレンジ色が混ざり合っているのだとか。
この世界には、どのような人たちが生きているのかとか。
私は、自分の力をどこで、どのように発揮できるのだろうとか。
どれも、知りたいし、探求したいことです。
探求すること、疑問に思うこと、学ぶことは、
生きることそのものです。
知っていると言ってしまうのは、実は簡単なことで、
生きることの可能性をシャットアウトしていることにもなります。
しかし、よく考えてみると、これまでの義務教育で、
正解を覚えることや、他者が時間をコントロールしてくれることを
学んできました。一般大衆が同じように認識する「知識」が何よりも
重要なことだと知りました。
それは、義務教育された「価値」の中で自分の人生を生き、
鳥かごに入れられていることに気が付かず、「羽があるから自由だ」
と思って、飼われている鳥と変わりありません。
現代において、「無知の知」は、何を意味するのでしょうか。
無知であることを知らずに、沢山のものをもっていると勘違いして、
今日という日を過ごしてしまっているのです。
人間が本来もつ、生命の力から湧き出てくる「学び」をはじめている人が、
この地球上に何人いるのでしょうか。
もし、いらっしゃるのならば、私は一緒に話がしたい。
正直に自分に向き合い、信頼のおける仲間と切磋琢磨していくことが、
人としての本来の学びなのです。
その仲間が見つからないようであれば、
努力が足りないか、自立していないかです。
なぜ、人は孤独であるにも関わらず、手を取り合う必要があるのかと言うと、
他者との出会い、関わることそのものが自身の大きな学びとなることを、
人は知っているからです。
もう1つの理由は、自分自身がより豊かに、
自由に生きることは、自分を取り巻く環境そのもの、
家族、地域、社会、世界、地球そのものだからです。
人は、自分だけをより豊かにしていくことは、出来ません。
自分の力や才能を、社会、多様な生物が住む美しい自然の営みを
支えてきた地球へと向かわせることしか、方法はありません。
人は、自分だけが生き抜くことができないことも知っています。
50年先、100年先、200年先の地球に住む人類のために、
自分のもつ生を発揮させたときに、きっと、自分でも驚くほどの
可能性に出会うことになるでしょう。
今の、私は、そのように感じています。
私は、そのように生きたいし、その可能性を信じて進むしかありません。
困難な道かもしれないし、楽しい道かもしれないし、
動いてみなければ分かりません。
だから、私たちは、学ぶことを止めないし、
知らないことを恐れずに、探求していくことが出来るのです。
これ以上の、
幸せはないと思っています。