「待機児童問題」「保育士待遇」子供を取り巻く混沌とした社会から「生物として自らの内に命を孕み繋いできた祖先」からの知恵を探る。

 

1015年11月10日現在も、待機児童の問題がニュースなっている。

私たちにとって、「我が子が保育園に入所できるのか。」「時期はどうか。」「市区町村の違い、ポイントは」という会話は日常に交わされ、子どもを産むことよりも、緊急の課題として懸念される。

待機児童は国の集計の「4.6倍」 現状と統計に“食い違い”が生じるワケ (1/2ページ) - 政治・社会 - ZAKZAK (2015.11.10)

 

それに加え、昨日の2015年11月9日「待機児童解消というけど、保育士の過酷な現実」と保育士の給与の待遇面による「働く保育士」の生活が困難であるとのニュースが挙がった。

保育士不足が深刻な問題に 自治体が対策、ふなっしーも協力(フジテレビ系(FNN)) - Yahoo!ニュース (2015.11.9)

 

このような「根本」の解決を見い出すことが出来ずに、「問題・問題・問題・課題」ばかりが挙げられている。待機児童問題以外にも、不妊治療、夫婦共働き、いじめ問題(義務教育への我が子への不安)社会構築そのものが、未来へ命を繋いできた、私たちを不安にさせるものばかりである。

 

私は、働くということを、自分の能力を高めること、自己成長する機会として捉えている。また、そこでの出会いは、自分自身を豊かに成長させてくれた。

一方で、それを女性の生き方として「自由に選択できるか」と視野を広げて考えた時に、そうではない「社会」が目の前にあることに気付く。

「出産」することへの恐怖・決断をさせない、この資本主義経済であらゆることがまわっている社会では「解決できない問題」をあたかも「解決しようとしている」として、不安ばかりが残り、気が付けば限定された選択枠しかないという現状も予想される。

 

私たちが、生きていく上で、「~できない」ではなく

「~も~も~もある、その中で、今はこれを選ぶ」という風に、その時のタイミングや価値観で自由に選択できることが、豊かに生きることに繋がると私は考える。

 

親としては、我が子に「一番よい環境を」と考えることは、自然なことであり、

保育所に入所できるのか、できないのか」よりも、

我が子が「どのような環境で幼児期を過ごすのか」を一番に考えておきたい。

わずか、数十年前までは、女性は、自分の能力があるにも関わらず、

「働きたくても働けない時代」があった時の同じように(戦争を経験した私の祖母の話より)現代は、「産みたくても産めない時代」に突入している。

なぜ、ようなような状況にあるのか、その背景も学ぶ必要があるのかもしれない。

 

しかし、今、私が存在しているのも、紛れもなく、どの時代にも生き延び、命を繋いできた祖先がいることからすれば、「産む」ということは、自然なことなのである。

 

その子供たちが「育つ」環境は、保育所だけではない。

保育所」に限定する必要はないと私は考える。

 

人が、人として育つ上で、重要なことは、家族や地域のなかで、「多様な大人」に育てられる経験である。

我が子が、隣の女性の膝に座り、自身が隣の子を背負っているなど、

「次世代を本当に考える大人たち」が「我が子のように思いやれる」環境が、現代を生きる乳幼児、児童には必要である。

 

しかし、忘れてはいけないのが、自身の胎盤を通して、産まれてきた子供は、自分自身の「関わり」を必要としていることを認識することである。目と目を合わせ、肌と肌で感じるコミュニケーションは、決して他者にはできない仕事である。

 

その、生物として人が生きていく上で、大切な時間を、「保育所」に要れることは、それを奪うことでもある。

このニュースでも「死活問題」として、「夫婦共働き」が言われ、「保育所」に入れるのが常識であり、スタンダードになりつつあると記されている。

でも、本当でしょうか。

 

その現代社会の混沌とした状況の中で、「育てる」ことよりも、

発想を変えて「子育て」をしていく方法を私は、模索する。

 

それは、我が子だけではなく、

隣の家の子も、

日本の子のことも、

世界の子のことも、

地球にこれから生まれてくる子も同時に考え、

「生物として自らの内に命を孕み、繋いできた」私たちの祖先からの知恵が、脈々と受け継がれている。

それは、言語や、宗教、国などあらゆる境界線を超えて、「共通する女性のもつ感覚」ではないだろうか。

どんな社会であれ、私たちの祖先は、生き延びてきた。

だからこそ、今の私がいる。

必ず、それを突破できる智恵があり、それをカタチにしていくのも、また私たちの世代である。