子どもの心が屈折せずに素直に次の行動に繋がる躾。

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そもそも、日本では、子育てにおいて「標準化」や「よい子」を

育てようと親の関心が向く傾向があります。

 

 

 

しかし、生物として生まれて、この世界を探求している子どもにとって、

ルールや決まりは、本能と異なることが多く、

なぜ、その決まりを守って生きる必要があるのかを

しっかりと理解しないまま、生きている子がほとんどです。

 

 

 

そうやって、多角的なものの見方ではなく、

どちらか一方を選ばせることで、

思考を停止させていかなければ、

疑問で溢れかえり、収集が付かなくなってしまうのです。

 

それが積もれば積もるほど、子どもの心は屈折してしまう恐れがあります。

 

 

 

ここでは、親の躾が悪とか善とかいう話ではなく、

改めて、躾の在り方について考えていきます。

 

 

 

 まず、私は、躾とは必要不可欠なものだと思っています。

同時に、躾の基本は「自分(親・教育者)が子どもに在るべき姿を示す。」

ことだと考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人としてやってはいけないいたずらがあります。

 

人として、ついてはいけない嘘もあります。

 

意図せずにやってしまうこともあるでしょう。

 

 

 

 

 

そんな時に、一番よい方法は、冷静になり、

正しい姿を具体的に肯定的な言葉で示すことです。

 

 

 

 

 

 

例えば、忙しい朝に、子どもが食器を片付けようとします。

あっと、気づいた時には、

重ねた食器が、左へ傾き今にも落ちそうな状況。

その後手を滑らせて、食器が落ちて割れてしまいます。

 

 

 

このとき、よく目にする光景は、

「どうして、ちゃんと持たないの?」

「忙しいのに。」

とその悪状況に浸り続けることです。

 

或いは、「食器をたくさん重ねてはいけないの。」

と、「してはならないこと」を強調して、伝えることはないでしょうか。

 

 

 

子どもは、それを素直に受け取りますから、

してはいけない状況を心に想像してしまうのです。

 

それでは、次への行動に繋がりません。

 

 

 

食器をもって運ぶときは、両手で、

順番に運ぶことを冷静に伝えるだけでよいのです。

 

 

「真っすぐになるように両手で持つのよ。」

と肯定的な言葉で、どうすればよかったのかを示します。

 

 

 

 

すると、子どもは、素直にその行動をイメージすることが

できるのです。

 

 

 

その時に、すぐ指導することで、次似たような場面が

あった時に、自分から率先して実行することができるのです。

 

 

 

子どもの心にはストレートに正しい方向を言葉で伝えること。

 

 

まっすぐに素直に育ってほしければ、

可能な限り、環境(状況)と心を屈折させない言葉を選ぶことです。

 

 

 

まっすぐに届いた言葉は、子どもにストレートに響いて、

行動に繋がるのです。

 

 

 

 

 子どもは、自分で一番反省していますから、

感情で責める必要はなく、素直に「ごめんなさい。」

が言える。

 

 

これだけで十分です。

 

 

自分から、やってしまったことを反省し、

「ごめんなさい」と言える子を、育てていきましょう。

 

 

ごめんなさいと言える人は、次があります。

 

必ず、成長します。

 

 

 

その言葉の背景には、自分のことだけでなく、

周囲のことまで考えられている証拠が隠されているのです。

 

改めることがあるとき、素直に訂正できる人は、

潔く、一緒にいて気持ちがよいです。

 

それは、大人も子どもも同じです。

 

一緒居て気持ちがよい空気が流れる人と

人は、一緒にいたいと思うのですから。

 

 

 

 

 

余談ですが、親子の関係も、師弟関係も、

教えることと、教わることとの間には、いつでも

溝が生まれる可能性があります。

 

教える方は、相手を想い、真剣になります。

相手の失敗も相手の成功も自分事なのですから。

 

 

前回、『自分の内に自分の師を育んでいくこと』を書きましたが、

教えるということは、自分の内に、新しい視点や考え方が生まれる

ということなので、それ以上に大きな成長なないでしょう。

 

 

 

 

それを知っていれば、相手の尊重し、

その距離を上手く図ることこそができるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもが自分の内に「自分の師」を育んでいくということ。

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素敵だな。

 

すごいな。

 

この人には敵わないな。

 

一緒に時間を過ごしたい。

 

と尊敬できる他者が身近に居ることは、

とても嬉しいことです。

 

 

 

人には、いろいろな素質・性格・癖をもった人がいますが、

今の自分にとって、よき影響を与えてくれる人は、

自分自身の嗅覚で解るものです。

 

 

 

不思議と子どもたちはこの嗅覚が、非常に優れています。

 

 

 

そして、少し観察してみると、

そういう人たちには、やはり傾向や魅力があります。

 

 

ここでは5つの魅力について書きます。

 

 

 

 

 

1.同じ土俵に立ち、厳しく(甘やかさず)指導できる。

 

決して、上から下からという視点ではなく、

同じ目線に立ち、同じフィールド内に降りて、

その状況下において指導することができます。

本人が一番逃げていること、課題になっていることを

ずばりと付く鋭さです。

そのために深い洞察力を兼ね備えています。

 

言われることは、実は、本人が一番解っているのですから、

傷つくことの反対で結果として、相手への信頼に繋がるのです。

 

本当に相手のことを思っている言葉であれば、

その表情や声から相手に伝わります。

 

 

 

 

 

2.孤独のなか、いろいろと解っていても、
それらを表面に出さず、水面下で方向を示していく。

 

言動の一致は、人からの信頼に繋がります。

しかし、他者以前に、自分自身の言動を一致させることや

心で思うことと行動を一致させることは、この時代に生きるならば、

そう簡単なことではありません。

 

解るということは、気づきの先の解釈まで落とし込めることです。

誰よりも、気づきの感度が高いからこそ、

他者や時間(時代)が追いつかないことさえあります。

それでも、表現方法や形を変えてでもよき方向へ導いていけるのです。

 

 

 

 

 

 

3.いつでも、どこでも腹をくくる。

 

潔く決断するために、物事を見る感度を日ごろから上げていることが

重要です。これが、一流と二流の違いだと思います。

 

決断することほど、勇気のいることはないでしょう。

腹をくくるという行為は、本当に勇気のある人にしかできません。

その背景には混沌としたものがあります。

 

決断後、その時は、周囲から反感もあるかもしれませんが、

時が経つと、皆がその決断でよかったと感じて、馴染んでしまいます。

 

絶望と希望の両方を見据えているからこそ、全体がよりよくなることを

考え、腹をくくり、生きることができるのです。

 

 

 

 

 

 

4.とにかく、大きい。

 

ここでは、身体の大きさではなく、人間の器の大きさです。

キャパシティーを含めた思考と心の大きさです。

 

自分が一皮むけて大きくなったと思っていても、

もっと大きい人はいます。

 

その存在を知り、いつでも謙虚に自分を高めようとするので、

物事や状況を受け止められるだけの器が大きいのです。

 

そして、今よりもっと、成長したいと心が勝手に動き出すのです。

 

 

 

 

最後に、

 

 

 

 

 

5.その人の心の中心になってはいけないことを知っている。

 

これは、とても難しいことです。

例えば、子どもは、親や師を目や身体で追います。

 

導いておきながらも、決して子どもの心の中心にはならず、

「そこにはいない」ということを実践しているのです。

 

その子どもの中心には、いつもその人が居られるようにしておくことは、
人が成長していく上で欠かすことのできない重要な要素なのです。

 

そのことを知っているので、対人間において、距離を測るのが上手です。

 

いつでも、次へ、前へ進むことのできる人を育てることです。

 

生きた時間の長さや社会的立場は関係がなく、

それが互いの成長に必要不可欠であることを知っているからこそ、

執着せず、そっと見守ることができるのです。

 

 

 

 

 

 

これから、どんな師に出会うのか。

 

 

 

どんな師に成長できるのか。

 

 

 

1人1人が自分の内に「自分の師」を育てる

 

 

それは、誰もが、自分自身の師であり、

同時に他者や未来の子どもたちの師であるという意味なのです。

 

 

だからこそ互いに切磋琢磨し、ダイヤモンドの原石のように磨き合う。

 

一度きりの人生で、ここに出会うということは価値の高いことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

未来の子どもを想う気持ちが、自分を育てるという行為に影響を与えるということ。

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誰もが、より高みを目指すことは、

自分のためだけではなく、生物としての豊かな進化に繋がります。

 

 

太陽が昇って、日が沈む。

当たり前のように過ごすこの一日ほど尊い時間はないのです。

 

そこに大半の時間を費やす役割=仕事が一日を占めています。

 

 

 

そこで思考することが、だんだんと

自分自身をつくっていきます。

 

 

 

人は、今よりもさらに、もっと・・・

という風に成長を心に思うものです。

 

 

 

状況によることもあるかもしれませんが、

私たちが「子ども」と呼ばれる時代には、

必ず、誰一例外なく、好奇心をもって

世界を探求していたでしょう。

 

 

これは、例外なく全員が経験したことです。

 

 

しかし、 大人になってから、この成長欲を持ち続けられる人と、

現状に甘んじて人生を終えてしまう人とがいます。

 

 

 

 

一体、何が違うのでしょうか。

 

 

 

 

ノーベル賞をもらったとか、

国の大事なポジションに就いているとかは全く関係がありません。

 

 

そこには、次世代の子どもを育てるという愛情をもっているか、

自分のため(この時代を生き延びるだけのこと)に生きているかの

違いがあるのだと思っています。

 

 

 

 

 

大人になってからの自己成長は、

「社会の子どもを育てる」

 という視点をもつことで、

自分をより高く、深く、広く成長させてくれます。

 

我が子や知り合いの子だけでなく、世界、日本に生まれてきている

子ども全員を想う気持ちからくるものです。

 

 

 

 

どの役割=仕事に就いていようとも、

誰もが、一つの先を見つめるとすれば、

後世に生きる子どもたちのためでしょう。

 

 

 

それぞれの役割=仕事がその一点と照らし合わせたときに、

ブレがないか、豊かさに繋がるのかを各々が考えることほど、

重要なことだと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日、ある親子が電車に乗っていました。

お年寄りの方がゆっくりと入って来られたので、

お母さんが「○○という駅までですので、どうぞ座ってください。」

と言って、席を譲りました。

 

 

お年寄りの方は、ありがとうと言って娘の隣に座りました。

そして、そっと「あなたのお母さんはやさしいのね。」と言いました。

 

 

その時の、娘の顔は恥ずかしいような嬉しいような

とても豊かな表情をしていました。

 

 

極日常の一コマで、とてもシンプルな図ですが、

ここでは、子育てをする上で大切な2つの気づきがあります。

 

 

 

 

 

まず、

自ら行動し、姿勢を見せて教育するということ。

 

 

つぎに、

第三者が的確な言葉を掛けることにより、

人との信頼関係を一段と高めているということ。

 

 

 

つまり、子を育てるためには、

自ら行動することと第三者が必要不可欠であるということです。

 

 

 

 

親にとっては、子どもにこんな風に育ってほしいという願いは

大なり小なり必ずあるものです。

 

しかし、子どもは、願った通りには育たない。

 

教育とは、時に傲慢に支配欲を掻き立てられる時があります。

 

 

 

 

この支配欲といかに自分自身が向き合い、自身を律して行動に

移せるか。

 

そして、自分の人生を生きるか。

 

その生き様を我が子に見せられるか。

 

実は、親としては、ここが一番重要なポイントなのです。

 

 

 

 

 

 

子どもを育てるということは、

究極の自分育てになるのです。

 

 

 

 

 

勿論、子どもが多ければ多いほど、

自己成長に繋がります。

 

昔、8人も10人も平気で産んでいた女性は、

女性としても、1人の人間としても

素晴らしい人間性を培っていたのではないでしょうか。

 

 

 

相手の成長を心から願う愛情。

 

 

厳しく相手を指導できる信頼関係。

 

 

相手を尊重できる謙虚さ。

 

 

 

それらを日常生活の中から、学んでいくのですから、

相当の精神性が鍛えられるのです。

 

 

 

 

子育ては、子どもと共に生きて、人としての在り方を

見せられるかというこの一点に尽きます。

 

 

子どもは、全ての大人から学びます。

 

 

 

 

日本では、特に子ども自身が子どもであることを

認識するためのエンターテイメントやテレビ、

教材などが巷に溢れかえっています。

 

 

そのようなことをして、わざわざ子どもが子どもを演じなくても、

人は、自分の精神性を高めるだけの真面目さは、

本来もって生まれてきています。

 

 

 

それは、年齢に関係なく、目の前の出来事や存在から学ぶという

人間の姿勢そのものです。

 

 

 

学ぶということは、形のないものです。

 

 

だからこそ、自分の思考を働かせ、自分の感性を刺激し、

表現しながら形作る必要があるのです。

 

 

 

それは、子どもと大人という境界線を超えて、

誰もが挑戦することなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学習の質を高めるには、「仲間・共生・全体」が必要不可欠であること。

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子どもの「仲間意識」は、自分や他者を育てるということに直結します。

 

 

人は、人と関わることで多くのことを学びます。

それは、一期一会の「今」という出会いに限ることであり、

教育においてこれほどに尊い時間はないでしょう。

 

 

人間は、社会的営みを送る生き物ですから、

共同体のなかで命を育むように支えあって生きているのです。

 

 

仲間のことを思う気持ちは、結局自分のことを思う気持ちに

繋がり、「共に」という感覚が自然に身についている

子どもは、自分も他者も大切にします。

 

 

このバランスが重要で、他人にばかり目がいく子もいれば、

自分のことばかりに目がいく子もいます。

 

 

 

私は、「人が人と関わる時間」こそ、「人を育てる」と確信しています。

 

しかし、今後、子どもを取り巻く教育環境が大きく変革していくことは

誰もが予想している通りです。

 

 

 

 

 

デジタル教科書の導入もそれに向けて行われているようですが、

「人を育てる」という観点で、意味のあることなのでしょうか。

www.fnn-news.com: デジタル教科書の導入...

2015.4.22

 

ここには、解決しきれていない膨大な問題が潜んでいます。

子どもの健康の問題。

教師の役割の変容。

個のスキル学習による学習スタイルの定着。

機材を使いこなすだけの人材育成。

書く能力の低下。

個別学習の時間増加。

システム移行、機械の故障のリスク問題。

導入のための予算。

もし、保護者負担になるのであれば家庭の格差が出てくるでしょう。

 

 

私たちに今、出来ることは、

1人でも多くの「仲間と共に、自分の人生を設計し、自己成長し続けていく人」

を育てていくことです。

 

 

しかし、昨今、家庭の多忙さ、女性の社会進出を促す流れ、

他者に対する警戒心などから、人と人が出会い、

豊かな関わりを生む場所と時間がこの社会から消えかけています。

 

 

人間は、比較的未熟な状態で生まれるので、馬の赤ちゃんとは異なり、

生れ出た瞬間から保護を要します。

 

 

つまり、その瞬間から、誰かと関わることで生きていくことを本能的に知っており、
生まれた瞬間から、他者との関わりにおいて学ぶということを体得してきて
いるのです。

 

 

現在の義務教育において、人は個として自立していくことを学び、

全てを1人の力で完結できるように、その能力や技能を使うことが求められます。

 

 

そして、私たちは、個を伸ばそうと考えたとき、

個へのアプローチを図ります。

 

 

しかし、実は、その個が属する学習共同体の全体を成長させる

(成長させようとする)マクロの視点でとらえなければ、

個の本当の成長には繋がりません。

 

 

 

 

 

そして、全体がゆっくりと変わり始めたとき、個の中にも、

大きな変化が生じてきます。

 

自らの好奇心で、問題を見つけて、

解決し、提案し、表現し始めます。

 

 

この逆もあり得ます。

個が変わることで、全体がぐんとよくなることもあります。

 

 

 

つまり、「全体がよりよくなることを1人1人が考えること。」

 

 

 

そうすることで、個の問題は、自然と解決されていくのです。

 

 

 

共同体というのは、家庭、学校、地域、社会、世界、地球全体と

拡がっていくものです。

 

自分が今、どの視点で物事を見ているのか。

今一度、自分に問うてみるのも必要かもしれません。

 

 

 

 

 

学習の定着についても、他者を意識することで、

理解度に差が生じます。

 下記の「ラーニングピラミッド」で示していることは、

「人に伝えようとして学習している」ことが、学習する上で

個の能力を高めることにも影響しているのです。

 

 

つまり、学ぶ時のモチベーションが、自分のためだけに学んでいる時と
その先にある他者をイメージして学ぶことでは、定着度に差が出ます。

 

 

 

 

 

 資料や書籍を読む-10%

視聴覚(ビデオや音声等による学習)-20%

実演を見る-30%

他者と議論する-50%

実践による経験、練習-75%

他者に学んだことを教える-90%

 

 

 

 

人は、生きた状況の中から学びます。

その体験を、後に振り返ることで経験となり、

知恵や次への行動レベルまで落し込んで思考するようになります。

 

 

 

 

 これから必要な能力は、同じことをアウトプットできる

人間ではなく、

全体がよりよくなるために、考え、

自分の能力を高めていくことのできる人間です

 

 

 

柔軟に変化に対応し、しなやかな竹のように

根を張り、上へ上へ伸びていく姿。

 

 

 

 

今後、ますます、人と人が、目と目を合わせ、

手が届く距離での交流の機会が重要になり、

人はそこで生きた知恵や充実感を味わうのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

疑問をもつことは、才能であり、自分だけの学習体系を作っていく原動力になる。

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『この地球に生まれて、

生きる中で、溢れ出てくる疑問。

 

そこに純粋に向き合い、目を見開く。

 

疑問をもつことは、一つの才能である。

 

 

その疑問は果てしなく溢れてくるのに、

年を増すごとに減っていくのはどうしてだろう。

 

この世界には分からないことの方が多いはずなのに。

 

 

時に、不意に出る「どうして?」「なぜ?」という言葉。

火山が爆発しそうなくらいの

エネルギーで、好奇心を刺激する。

 

 

それを、正しく真剣に応えてくれる人がいなくて、

自分でもどうやって探求すればいいのか解らないから、

いつの間にか、自分の内にのみこんでしまう。

 

 

それが、何度も経験として積み重なると

疑問を持たない方が「生きやすい」と感じるようになる。

 

 

不思議なこと。

 おかしなこと。

 知りたいこと。

 

山ほどあるのにも関わらず、

毎日は、決められた時間の中で、

カリキュラムが進んでいく。

 

 

「あぁ、今、これじゃないんだよな。」

 

「今、知りたいのは、ここじゃなくて。」

 

 

座っているお尻がもぞもぞとする。

 

 

 今すぐに、聞きたいことがある。

今すぐに、行きたいところがある。

今すぐに、話したいことがある。』

 

 

 

 

 

 

本来は、疑問を解決していくプロセスでまた、

知りたいことが出てきます。

 

そうやって、自分で学習体系を作っていくのです。
物語を紡いでいくように、自分の思考で自分の言葉で。

 

学習体系とは、思考を既存のシステムに当てはめるのではなく、

自らの経験と関心で作っていくものなのです。

 

※体系とは・・・個々別々の認識を一定の原理に従って論理的に組織した知識の全体。

 

 

 

そこで、描いた無限の筋道と無限の地図が、

自分自身のポートフォリオになって

友達にも社会にも還元できる日がくることを

想像し計画することは、子どもにとっては遊びのように楽しいことなのです。

 

 

 

 

 

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先日、『障害のある子どもの通級指導 小中学生9万人 過去最多』

発達障害などで通級指導の子ども9万人余 過去最多 | NHKニュース

2016.5.5

という記事を見て、驚きました。

この表現が当たり前のように記事になる今日。

 

スタンダードとそれ以外という境界線を作れば作るほど、

多様な他者に出会い、学ぶ機会が減っていくのです。

 

ADHD,LDなどと詳細に障害名を区別すればするほど、

普通という概念すら曖昧になってきます。

そもそもラベリングする意味はあるのでしょうか。

そんなに簡単に人間をカテゴライズし、理解することは困難なはずです。

 

 

また、人は、環境によって、自分の能力の発揮の仕方を変えます。

これは、とても不思議で興味深いことだと私は、思っています。

 

 

人は、人から学び成長するということを忘れてはならないし、

発達障害と呼ばれる子ほど、才能があることは

誰もが知っています。

疑問をもつ才能も人一倍強いです。

 

少なくとも、私はこれまで出会った子を通して、

本心からそのように思っています。

 

今、教育と医療の境界線で、戸惑っているのは、

子どもとその親ではないでしょうか。

 

疑問に向き合う時間は、
従順に従う時間の数倍、子どもの内では生きた時間になっています。

 

生きた時間を積み重ねることが、

今を生きる子どもたにとって渇望されているものなのです。

 

 

 

 

『「発達障害児の早期発見」人が人をラベリングすることはできるのか。

私たちは他者との「違い」から自己を成長させるのです。』2016.2.3

2016-02-03 - familylearning-fullの日記

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

行動することは、思考することを遥かに超えた学びに繋がる。

 

思考することは、生きることです。
けれど、それを超えるものが、行動することです。

 

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100時間思考しても、

0.001秒の行動からの気づきの方が価値のある学びになります。

 

そのくらい、一瞬一瞬の時間は尊いのです。

 

 

 

人は、行動することによって学びます。

なぜなら、行動すると五感が自然に働くからです。

 

五感とは、視覚・聴覚・味覚・触覚・嗅覚を言いますが、

それを感じるだけの感受性が豊かにはたらきます。

 

 

 

つまり、言語や写真で状況を理解するよりも、

その場に行って、360°まるごと身体をつかって

感じ取る方が、数百倍は学習を先へと進めることができます。

 

 

そこに必要なことは、

やってみよう!

という好奇心と勇気です。

 

好奇心があっても、勇気がなければ先に進むことはできません。

 

 

時は、待ってくれません。

 

 

 

その時に、感じたことを自分の学びとして、

次の表現に繋げていく時にこそ、思考力が必要となり、

現段階よりも、よりよい行動に繋がるのです。

 

 

時に、恒常性を維持したがる人間の特性が、

勇気を出すことを憚ることがあります。

 

勇気を出して、一歩進めば、異なる世界が見えてきます。

 

 

 

もしも、目標としていた場所や機会に恵まれその場所にいたら、

達成感や充実感よりも、さらなる勇気が湧き出てくる方が、

きっと楽しいはずです。

 

 

たまに、話をしていると目標がない、夢がないという人がいますが、

それは、ないのではなく、人間が築いてきた文化や風土のなかで、

現在忘れているだけであり、あなたから繋がる生命を繋ぐという

普遍的な目標があります。

 

 

その過程で、よりよい環境を目指したり、

自分の才を発揮して、豊かに成長したり、

他者との出会いを通して、互いに学びあう時間があるのです。

 

 

そこで豊かに心を成長させなければ、

生命を育て、教育し、導くことができないことを無意識の内に

私たちは、知っているのでしょう。

 

 

私たちは、普遍的な目標を知りつつも

他の優先順位を高くしたり、いろいろな物事が

溢れていて、そこにエネルギーを費やすことになります。

 

 

命の在る限り、無駄な時間はなく、どの時間にも

学びがありますが、特に現代は、それすらも思慮深く、

八方美人にならずに見ていくことも

時としては必要なことでしょう。

 

 

 

勇気を出して、踏み出した先に、後悔はないのです。

 

 

そして、そこでの出会いの一瞬に何を学ぶかは、

自身の覚語と期待をもち合わせているかいないかの違いです。

 

私たちは、他にも、忘れかけているものがあるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知識よりも知恵を重視することは、蓄えることから引き出すことへ学びが昇華されること。

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これまで訪れた外国の地で、私は、子どもたちが

真剣に生きる姿を幾度と目にしました。

 

習慣や文化によって、

食べものの質や量が違ったり、

不自由さを感じて生きていたり、

自由に恋愛ができなかったり、

家族の構成のスタイルが違ったりしていました。

 

 

どの国も教育においては、それぞれの課題や目的はありますが、

私は、国を越えて、教育の本質「変わらない普遍的な価値」が

あると思うのです。

 

「普遍的な価値」とは、

生物としてもつポテンシャルを最大限に引き出すということです。

 

それは、教えられるというよりも、すでに知っているというイメージに

近いです。

 

後から身につけて蓄えていくものが、「知識」だとすれば、

本来、生まれつきもっており、その時々で発揮される能力が

「知恵」だと考えています。

 

 

「知恵」は、その環境や状況下において、自然に発揮されています。

 

 

 

 

例えば、植物のタンポポは、命を繋ぐために、いろいろな工夫をして

生き延びています。

今日のような雨天の日には、タンポポの綿毛の

一本一本は、開かずにすぼんでいます。

 

風に当たって飛んでいく必要がないことと、綿毛ができるだけ濡れないように

自分を守っているのでしょう。

 

 

 

 

一体、なぜでしょうか。

 

 

それは、

命を繋ぐためです。

 

 

 

 

 

では、私たち人間はどうでしょうか。

 本来もつ知恵を発揮できているのでしょうか。

 

 

 

今、自分の知恵をほんの少し信頼してみたら、

 意外なところに新しい自分を発見するかもしれません。

 

そう考えると、知恵の持ち主であるという点では、

子どもも大人も年齢は関係がないのです。

 子どもの方が本質をついていることがよくあります。

 

 

私たちは、どのくらい子どものことを信頼しているでしょうか。

 

それは、目の前にいる子どもと自分自身を含みます。

 

 

私は、この地球に生まれてくる子どもたちが

自分の才能を十分に発揮できる社会にしたいと

ずっと心に想っています。

 

残念なことですが、この才能を守り、発揮していくためには、

今の義務教育だけでは満たすことができないのです。

もちろん、学校に行って義務教育を受けることは必要な時間です。

 

 自分とは異なる他者に出会い、ある一定の基準値を

体得することができるからです。

そのほかにも楽しいことがあるでしょう。

 

 

もし、今いる場所に居心地の悪さを感じたら、

それらを一つの「見方」や「価値」として捉え、

自分の「知恵」をつかって、

「異なる見方」や「価値」を考え始めるチャンスだと捉えてみることです。

 

人は、困難な壁があればあるだけ、「知恵」を必要とします。

 

 

今日という日が、雨降りだろうが、嵐だろうが、

その期間をどのように生き抜くかを考えてみましょう。

 

 

それは、あなたが未来へ命を繋ぐ存在であるから、

あなたの内にもきっと、多くの知恵が眠っているはずです。

 

 

それを、自分の意思でしっかりと確認していく過程こそが、

生きることそのものなのです。