疑問をもつことは、才能であり、自分だけの学習体系を作っていく原動力になる。
『この地球に生まれて、
生きる中で、溢れ出てくる疑問。
そこに純粋に向き合い、目を見開く。
疑問をもつことは、一つの才能である。
その疑問は果てしなく溢れてくるのに、
年を増すごとに減っていくのはどうしてだろう。
この世界には分からないことの方が多いはずなのに。
時に、不意に出る「どうして?」「なぜ?」という言葉。
火山が爆発しそうなくらいの
エネルギーで、好奇心を刺激する。
それを、正しく真剣に応えてくれる人がいなくて、
自分でもどうやって探求すればいいのか解らないから、
いつの間にか、自分の内にのみこんでしまう。
それが、何度も経験として積み重なると
疑問を持たない方が「生きやすい」と感じるようになる。
不思議なこと。
おかしなこと。
知りたいこと。
山ほどあるのにも関わらず、
毎日は、決められた時間の中で、
カリキュラムが進んでいく。
「あぁ、今、これじゃないんだよな。」
「今、知りたいのは、ここじゃなくて。」
座っているお尻がもぞもぞとする。
今すぐに、聞きたいことがある。
今すぐに、行きたいところがある。
今すぐに、話したいことがある。』
本来は、疑問を解決していくプロセスでまた、
知りたいことが出てきます。
そうやって、自分で学習体系を作っていくのです。
物語を紡いでいくように、自分の思考で自分の言葉で。
学習体系とは、思考を既存のシステムに当てはめるのではなく、
自らの経験と関心で作っていくものなのです。
※体系とは・・・個々別々の認識を一定の原理に従って論理的に組織した知識の全体。
そこで、描いた無限の筋道と無限の地図が、
自分自身のポートフォリオになって
友達にも社会にも還元できる日がくることを
想像し計画することは、子どもにとっては遊びのように楽しいことなのです。
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先日、『障害のある子どもの通級指導 小中学生9万人 過去最多』
発達障害などで通級指導の子ども9万人余 過去最多 | NHKニュース
2016.5.5
という記事を見て、驚きました。
この表現が当たり前のように記事になる今日。
スタンダードとそれ以外という境界線を作れば作るほど、
多様な他者に出会い、学ぶ機会が減っていくのです。
ADHD,LDなどと詳細に障害名を区別すればするほど、
普通という概念すら曖昧になってきます。
そもそもラベリングする意味はあるのでしょうか。
そんなに簡単に人間をカテゴライズし、理解することは困難なはずです。
また、人は、環境によって、自分の能力の発揮の仕方を変えます。
これは、とても不思議で興味深いことだと私は、思っています。
人は、人から学び成長するということを忘れてはならないし、
発達障害と呼ばれる子ほど、才能があることは
誰もが知っています。
疑問をもつ才能も人一倍強いです。
少なくとも、私はこれまで出会った子を通して、
本心からそのように思っています。
今、教育と医療の境界線で、戸惑っているのは、
子どもとその親ではないでしょうか。
疑問に向き合う時間は、
従順に従う時間の数倍、子どもの内では生きた時間になっています。
生きた時間を積み重ねることが、
今を生きる子どもたにとって渇望されているものなのです。
『「発達障害児の早期発見」人が人をラベリングすることはできるのか。
私たちは他者との「違い」から自己を成長させるのです。』2016.2.3
2016-02-03 - familylearning-fullの日記