「いじめ重大事態7日以内に報告 文科省指針案」子どもから発信されるSOS。私たち1人1人の「生き方」と「価値」が今、問われているのです。

 

「いじめ対策をどうするか?」

「その指針は?」「責任の所在をはっきりさせよう。」

 

現在の義務教育施設において、「いじめ」はどこにでもあるという前提で

制度や決まりが次々に盛り込まれていきます。

よって、1人1人の行動・発言を細かく監視することが求められます。

 

今、こうしている間にも、子ども間の「人としての距離感」が少しずつ

変容していることにお気付きでしょうか。

 

いじめ重大事態、学校は7日以内に報告を 文科省指針案 :日本経済新聞

2016.2.10

いじめ防止対策推進法条文を読む:子どもでもわかるようにいじめ防止法を解説(碓井真史) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

本来、人が人をいじめるという行為は、あってはならないことです。

しかし、いじめという概念自体が実に曖昧なものです。

この定義も昭和61年、平成6年、平成18年から変容し、平成25年度から

「いじめとは、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人間関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」とされました。

成長過程のまだ未発達の人間同士の「関わり」から生まれてくるものであるので、

はっきりと線引きすることは難しいです。

 

 

子どもは、人として言ってはいけない、

やってはいけないことを平気でする時があります。

その時に、そのタイミングで、芽を摘まなければなりません。

とてもエネルギーのいる行為ですが、しっかりと「言葉」と「姿勢」で、

厳しく伝えなければならないときがあります。

 

児童・生徒からのいじめの訴えがある前に、その予兆を見逃さないように

いつも細心の注意を払っておくことは当たり前のことです。一瞬を見逃さないこと。

特に、言語化され、顕在化することの方が少ないので、日常から言動や顔色、

目を観察しておくことは家庭でも重要なことです。

 

子ども間については、相手の顔や目を見て、コミュニケーションを図ることを

自然に、そして子どもの間の文化として、今よりももっと浸透させる必要が

あります。

人と、言語を用いて、曖昧にせずに、コミュニケーションを図るべきです。

人は、言わなければ伝わらないことがほとんどです。

だから、勝手な解釈をせずに、きちんと自分の想いを言語化し、

相手の考えを聞くことが必要なのです。

それらを日常に根付かせていくことは、いじめ問題を解決する

一端を担うのではないでしょうか。

 

本来、各々が自分の生き方を全うしていれば、人にとやかく言う暇などありません。

「いじめ」は緩んだ空気感、人として生きる規準から外れた瞬間に起こります。

 

監視、管理の目が無ければ、自分の行動を制御できない人もいます。

一方で、そのような目がなくても、自分のことを淡々と成長させていく人もいます。

どちらが、人として、幸せでしょうか。

 

成長する人の共通点は、相手のよさや自分との違いを何の抵抗もなく

受けとめられることです。

少しぐらい違っていても相手の生き方だから尊重する。

その人と一緒にいるか、いないかは「個人の自由」です。

だから、わざわざ「嫌がらせ」をするのは、

本人の問題で深いところでの課題を抱えているからでしょう。

 

自分の内の課題は、自分で解決するしか方法はないのです。

自分のことは自分にしか分からないのです。

他者を鏡にしながら、そこに気付かない限り、

成長はないので、同じことを繰り返すことになります。

 

 

私は、それでも、人は変わる可能性のある存在だと思っています。

その行為が悪だと知らず、良いことだと思って自然に振る舞う人もいます。

それは「価値」の違いです。

 

管理・監視体制で「決まり」を作って、

「あなたは、この発言または行為をしました。よってこのような決まりに当てはまります。」などすることは、余計に抑圧された感情から、いじめが現れてくるのではないかと懸念します。

 

私たちが、生物として本来もつ生きる価値で、生きていることが

「普通」であり「常識」であれば、自分が悪だと知らずに良いことだと思っている人は、その社会に居づらくなります。

その文化に馴染めなくなります。

恥ずかしくなるものです。 

 

この社会を担っているのは、2016年現在では、私たちです。

あと100年経てば、違う人達が担うことになります。

これだけいるのだから自分だけ・・・と思ってはいませんか。

誰かがやってくれると思っているのですか。

そんな他人任せの人生でよいのですか。

 

自分の人生を生きるということは、まずそこに責任をもつことです。

何気ない貴方の発言、生き方がこの社会にどれだけ影響しているか

想像してみてください。

 

社会的立場や発信力のある人だけが社会を担っているのではありません。

今、何を選ぶか、何を規準にしているか、どんな行動をとっているかが重要なのです。

何を食べて、何を着て、何を思考し、何を選ぶかという

小さな日常の全てはそこに繋がっています。

 

どれだけ、いじめの定義が付け加えられても、いじめの対策が盛り込まれても、

人としての在り方や生き方を真剣に私たちが考えない限り、

変わりません。

いじめの問題は、教育での子どもの問題だけではありません。

 

社会全体の私たちの大きな課題であることを、

子どもを管理・監視する前に自己を省みて、自分と周囲の世の中が

今、どのようになっているのか真剣に考えなくてはならないのです。

 

そこに真剣に関わり続けることです。

教育の場では、相手とコミュニケーションを図り、

関わることでしか見えてこないものもあります。

しかし、現在の対応では、その逆で関わりを抑圧したり、希薄化する方向へ

向かっています。それで解決はできるのでしょうか。

 

 

子どもは、今、SOSとして発信しています。

 

自分自身の生き方を省みて、生物として本来在るべき、

よりよい方向へ、私たち1人1人が指針を合わせることです。