Familyについて調べ考えたこと
私たちは、地球に生まれたときから、この小さな共同体に属しています。
それは、一体、何のために形成され、現在に至ったのでしょうか。日本では2015年現在、3組に1組が離婚し、「シングルマザー」や「女性の貧困」という問題を抱えています。これらの問題はそのまま直結して、子どもの教育に関わることです。先日、話題になった「同性婚」においても私たちがもっていた「性」に関する認識に変容がもたらされるのではないか。これらの未来を見据えて、今後、このFamilyという概念を、私たちが再定義していかなくてはならないと私は考えています。「新しい家族のかたち」が模索される世界的な流れにおいて、ここでは、Familyについて考えてみたい。
Twitterで、ファミリーについて書かれてある面白い記事(拡散されていたもの)を見つけました。
F・・Father
A・・and
M・・Mather
I・・I
L・・Love
Y・・You
ふむふむ。これを見た時に、なんだかしっくりこない私は、気がつけばFamilyについて調べていました。
Familyとは 1家族、一家 夫婦を中心にその子供を含めた家族単位をさす
2血族である親族、一族
3生活共同体
4家系、家柄、名門
5英・米では、一般的に大家族的発想はない
もともと、Familyはラテン語のFamulus「奴隷、召し使い」が語源であり、Familiaも「召し使い」という意味があります。17世紀からFamily「血縁がある・一族・家柄・民族」との意味で使われるようになったそうです。
また「核家族・unclear family」という言葉は、アメリカンの文化人類学者G.Pマードックが『社会構造論』1949年に初めて使用し、人類に普遍的ですべての家族の基本的な単位として用いた。日本には、第二次世界大戦後に入ってきました。
Familyの語源を調べただけでも、私たちが考えるような意味ではないことは認識していただけたのではないでしょうか。そもそも、言語はその文化の中で共有され、醸成されて形成されていくものであるので、日本的な考えとは相反るのかもしれません。
次に、家族という言葉を見てみましょう。
「いへ」・・人が住むための建物・家屋=人間を入れる器
よく「努力家ですね!」「君は、わからず家だ」などという言葉を遣うときがありますが、こちらはその性質を表します。つまり、カテゴライズすると言えるでしょう。
書道家、芸術家などは、そのことに従事していることを示し、それに従って事を成していると置き換えれば、その人そのものではなく、書道家の○○さんと言ったように、そのイメージの中で仮面をかぶっている状態だと言えるのではないでしょうか。
私は、「Family・家族」には、囲われたり、従ったり、何かに束縛されるようなイメージがあります。それに、単位化することで、支配しやすような構造になっているということに気が付きます。
そして、この「族・ぞく」という音が、あまり心地よくないですね。
族とは「血統・一門」という意味があり、「ぞく」という漢字は
俗・・習わし・習慣
賊・・そこなう・ぬすびと
属・・従者・部下
続・・続き
などがあります。
また世俗とは、世の中の風習・習慣
俗才とは、俗事(世俗のわずらわしい事柄)に長じた才能と言います。
1つの単位にすることは、1人1人の個性を消していく行為にも繋がります。それは、才能を発揮できないようにさせるためでもあるのです。
普通に生きていれば、解らず、それに気がつく人の感性と強さは、疑問をもち自分で考える習慣から生まれます。
そして、生まれた家柄や土地によって、本来、生物としてもつ才能を開花できないようにもされています。本来であれば、どの土地に生まれようと、自分の才能を発揮できる社会のシステムが必要なのです。
理由は、それが一番自然な状態だからです。
そもそも、日本人は農耕民族で「村」を共同単位として生活していました。そのことはここでは長くなるので、言及しませんが、人類が永続的に進化できるシンプルな仕組みがあったのだろうと予想しています。
本来、人間は社会的動物のはずですから、その中で営むことで「豊かな文化」「豊かな言語」を生みだしてきました。それはその土地の「独自性」に繋がります。そして、そこに住む個人が自分の才能を発揮して生きていける「共同体」は理想です。人は、1人では生きていけませんから、他者と関わることで、自分自身の可能性に出会い、成長していくのです。
わたしたちは、知恵を絞り、何か新しい発想で「家族のかたち」を追求していく必要があると私は考えます。
次は、教育・Educationについて述べていきます。