夢中になることは未来に繫がる「子どもの生命感」はどこからきて、どのように引き出されるのか。

子どもは、何かに夢中になっているとき、

没頭している時、本当に、真剣な目をします。

 

その表情は、時間も、身体も、思考も、全て丸ごと、そこに投げ出しているかのようで、見ていると興味深いです。

そうであるか、ないかは、瞳を見ればすぐに解ります。

 

「生命感」に溢れていて、いきいきとしている子は、とても「自発的」です。まさに、「自分から発している状態」です。

この「状態」に入ると、見守るのことが1番です。親・教育者にとっては、その子の「良さ」を発見することができる貴重な瞬間ですから、観察すべきです。

 

声をあげたくなるくらいに爆発的に没頭する子、静かに没頭する子、友達と話しながらも没頭している子、様々なタイプがいますから、その子の「らしさ」を発見していくことは、私の研究テーマでもあります。

このような「自分から発している状態」のことを、フロー状態とも呼びます。

 

フロー理論とは - flowinstitute ページ

 

詳しくは、以上の記事にもTEDのスピーチでも記されていますが、

本当にこのような状態にいる人は、次々に新しいものを生みだしていく可能性を秘めていると私は考えます。

 

それと同時に、幼児期・児童期に「自分から発している状態」を感覚として多く体得できれば、それが、その人の人生に豊かさをもたらし、大きな財産になることは言うまでもありません。

 

そして、生まれた場所や、時間は関係なく、全ての子どもがもっている能力である、

それが、「生命感」に繋がっています。

 

では、自然発生してくる子どものこの「生命感」は、どこからくるのでしょうか。

 

1つは、「無知の知」への憧れと、探求心。その可能性の中に生きているからだと思います。

もはや、「知っているか」「知っていないか」は彼らにとって、関係がなく、「自ら体感する」ことへの喜びでしかないのです。

 

もう1つは、それが発生する環境があるかという点です。親・教育者が「子どもの無限の可能性を信じる」ことができるかということです。

周囲の環境が、もう既にあるべき姿そのものであれば、その子はそのように伸びる可能性が高いです。

これは、親・教育者が、本当の意味で自分自身を信頼していなければ、そこを教育していくことはできません。

それに、「~してはいけません。」「~しなければなりません。」これは、事実ですが、子どもの中では、否定的な感情と言葉と意味が同時に入ることになるので、子どもの内側で、自発的に享受され、行動には繋がらないことが多いです。

 

そもそも、親であれ、教育者であれ、「人を変えることは不可能」であるということが、今現在の私の考えです。

しかし、「変えることができる」と思い込み、それを愛だと勘違いをしていることがあります。

 

それならば、私たちに何ができるのでしょうか。

放置・傍観しているだけでは、親・教育者ではないです。傍観≠見守る

 

それは、積極的に、環境をそのようにしていくということと、そうあるべき姿に、

私自身がなるということです。

演じるというよりも、もうすでに「今、現在、そのような状況にある姿」を見せ続けることでしか、よい方向へ導いていけないのです。

 

いつの時代にも、子どものことを真剣に考える大人がいたことは、事実です。

そこで、悩み、考えようとしていたことは、自分自身の成長に繋がっていることを生物として知っていたのだと思います。

子どもたちを、よき方向へ導くならば、私たちが生物としての「豊かさ」のなかで生きていることが何よりも大切だと確信しています。

私は、子どもたちとの出会いにおいて、関わる度に、自分の知らない自分に出会うことがよくあります。

それは、自分から引き出そうとして引き出されているものではなく、自分でも「あっ、こういう自分もいるのね」と極自然に発生してきます。

親・教育者は、そこへの「自分自身への変化」を恐れずに、変幻自在に、世界を楽しむことができるのですから、本当は、子どもを育てる行為そのものは、たのしくて、たのしく、たのしくて、仕方がないことなのだろうと感じています。

 

 

多様なコミュニケーションツールは「情報伝達・意思疎通する力」を本当に高めるのか。本来の人と人とのコミュニケーションは、自己の内から感じ考える「内発的」成長に支えられている。

「コミュニケーション力が大事である。」

 

「コミュニケーション能力を高める。」

 

私は、耳にタコができるほどよく耳にします。

 

現代において、とても大切であるとされています。

そして、以下の記事(2015.11.11)のように家族形態が変容している現在において、コミュニケーションについて、今一度、考えなおす必要があるのではないか。

 

「一人で子育て=女性」とは限らない 軽んじられがち「シングルファーザー」 (ZUU online) - Yahoo!ニュース BUSINESS

(2015.11.11)

 

 

 

そもそも、コミュニケーション(communication)の語源は

ラテン語のコムニカチオ(communicatio)です。

「分かち合うこと、共有すること」の意味です。

 

コミュニケーションとは 

社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる。「―をもつ」「―の欠如」

動物どうしの間で行われる、身振りや音声などによる情報伝達。 [補説]コミュニケーションは、情報の伝達、連絡、通信の意だけではなく、意思の疎通、心の通い合いという意でも使われる。「親子の―を取る」は親が子に一方的に話すのではなく、親子が互いに理解し合うことであろうし、「夫婦の―がない」という場合は、会話が成り立たない、気持ちが通わない関係をいうのであろう。

 

 

その意味を考えると、至難の技だと思います。

相手と分かち合う、共有することができている状態とは、人生のうちに、もしかしたら何回かほどしか訪れないのかもしれません。それに加え、そのような生命同士で行われるべき、コミュニケーションの場が、現代の社会を見渡せば、確実に減っています。

 

これまで、窓口で時間がかかった手続きも、機械を通せば、瞬時に終えられる。

子どもは、幼児期・児童期から「防犯ブザー」「子ども携帯」を肌身離さずに、もっている。

 

私たちの周りには「便利」とされている「多様」なコミュニケーションツールが存在しているのにも関わらず、

どうして、人間同士の関わりが「希薄化」されているのでしょうか。

 

その根本を探らなければ、本来、人が人として生きていくための大切な時間・機会に

必要な「コミュニケーション能力」を高めることができないのです。

それでいて、「コミュニケーション力を高める教育」には、無理があります。

 

なぜならば、子どもたちの学びは、生活することそのものにあるからです。

 

子どもの学びは、生活がベースになって、派生されます。

 

そもそも、個の経験からきた、「伝えたいこと」がなければ、どのような手段をもっていても意味がありません。

「誰かに伝えたい。」「あの人に知らせたい。」「自分の考えをシェアしたい。」

という初めの欲求がなければ、はじまりません。

 

それは、自己の内から「内発的」に感じられた、考えられた状況からスタートします。そして、子どもたちは、「誰かに伝えたい」という欲求を誰しもがもっています。

 

それを、身振り・手振り・声色・表情・目・言葉・体、すべての身体的情報で伝えてきますから、それを瞬時に読み取り、その背景を想像し、そこで一番、必要な言葉を投げかけることが出来るのかが、私たちの役割です。

 

ということは、親・教育者のコミュニケーションスキルが、鍛えられているということにもなります。

 

目の前の子どもの「意思・考え・アイデア」を、「聴く」ということは、家庭・家族において、一番重要なことかもしれません。

インターネットで「教育テレビ」「お受験先の学校」を選ぶ時間よりも、我が子の人生を豊かなものにしてほしいと願うならば、今、すぐに、目の前の子どもと、言語を超えたコミュニケーションを図ることが何よりも大切です。

 

 

上記で、コミュニケーションは、至難の技だと述べたのには、理由があります。

まず、人は、同じようなことを体験しているにも関わらず、違うように感じたり、見ていたりするのは、

「他者」であるからであり、「見ている世界・感じている世界」は違うからです。

 

そして、現在は、スマートフォン、電話、テレビ電話、チャット、スカイプなど多様なコミュニケーションツールが存在します。

 

しかし、コミュニケーションスキルが、現代において懸念されているのは、そのスキルを磨く場所と機会が減ってきているからであり、その「スキル」とは、人が人とリアルに関わることの技術のことを言っています。

 

2015年現在、溢れている「多様」なコミュニケーションツールは、

人が本来もつコミュニケーション能力を高めることになっていないと私は考えます。

 

けれど、それを駆使するように社会は構築されています。(ICT教育も含める。視覚的理解を助ける手段としては有効だか、根本から考えると議論の余地がある。)

 

どれだけ、ツールが発達しても、それらには、「物質」としての「無機質」なものである事実と、そこには「電磁波」が存在し、それを通しての、意思疎通になるので、

相手からの声や、目、身振り、顔色、肌感などの情報から、瞬時に判断することは出来ません。

(※電磁波については、自身でよく調べていただきたい。想像以上の衝撃と、知って上手く付き合えば、最大の効果になる。)

 

 

そして、それらの情報なしでは、「本当に、情報を交換した」ということにはならないのです。 

「心が通じている」「理解し合う」というのも、曖昧な表現であり、必ず「どちら側から見て」という、視点からでしか判断できません。

そして、同時に、自分が感じること、思考していることがストレートに伝わる

「表現手段」を私たちは身に付けているのでしょうか。それは、日々の試行錯誤です。

 

そう考えると、人は、孤独であり、その中で「如何に、自らを表現し、相手と関わるか」は、生きることそのものであるかのように思います。

 

自分の使命は何か、どのように生きていくのか ということが分かっている人は、ほとんどいないのが現実でしょう。

 

だからこそ、私たちは、出会いのなかで、相手のことを知ろうとする過程(コミュニケーションの過程)で自己を知り、その可能性に気付き、自己成長していくことは、生きることそのものであるように思います。

そして、その状態は、本来の「学ぶということ」に1番近い姿です。

 

人が、人として進化してきた過程のなかで、これほどにまで、本来のコミュニケーションが出来ずにいた時代はあったのでしょうか。

平安時代の人々が、文を詠む姿は、一見、時間も手間もかかるが、自分の人生を生きていく上では、十分な時間とスピードであったようにも感じます。

そこに身を馳せると、如何に現代の社会のコミュニケーションが、空虚で、見え見えで、直接的で、相手に想像することの余地を与えないものかが分かります。

 

それが、「自分の時間を奪われている」という事実にも気が付かなくてはなりません。だからこそ、自分の感覚、頭を使って、選び取るのです。