人が変わるとき・人の成長について考えること。

 

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人は、いつ、いかなる時に成長し、

自分から学びはじめるのでしょうか。

 

机上での勉強や本から得られる知識習得だけでなく、

人との出会いと関わりから学ぶことは豊かで生きた学習になります。

それが、自己の成長の鍵を握ります。

 

人は、赤ちゃんの時から自分の意思をもって、

生きているので、本来、人は自ら学び、成長する生き物なのです。

模倣し、共感し、真似て、学んでいきます。


ですから、教育において自発的・主体的に学習することを掲げることは本来おかしいのです。

なぜなら、人は自発的な生き物だからです。

 人が本来もつ生命感や意欲を少しずつ少しずつ失っていくような学習環境や仕組みに問題があるのです。



親、教育者であれば、子どもに進んでものごとに関わってほしいと誰もが願うでしょう。

そして、自分で考えるようになってほしいと願うでしょう。

 

このような願いがある一方で、

私たちは、行動では、自分のいうことを聞きなさいという風にしか子どもに

伝わっていない現状もあります。

このような直接的な言葉でなくても、行動や視線から気づき、

子どもは感じ取っているのです。

 


子どもの感受性は、今の私たちの数十倍は感度が高いと考えておいた方がよいです。

ただ、それらを含めアウトプットする能力は知識と経験に伴って伸びるので、

熟年者の方が勝っているように受け取られます。

 

 

子どもが 人として成長していくには、
より豊かな出会いが必要不可欠です。

 

人や、出来事、物、本などの出会いです。
この中でも、生きた人間同士から、学ぶことがとても大きいです。

それは、若年者や熟年者という境界線なく、互いに
その出会いによって、学び、影響を受け、高め合っているのです。

人と関わるためには、そこに自分の意思が必ず存在します。
また、不思議と相性といものもあるようで、
今、この人との関わることおいて、無意識だとしても、
何らかの自分の成長を感じるからなのでしょう。


子どもたちは、ある年齢から、グルーピングをするようになります。
それは、共通の体験や言語をもち、自分たちで社会を作っていこうとする健全な発達の一つです。

人は、意思もって相手と共にいます。それが、無意識的であっても
一緒にいて楽しいとか心地よいとか、面白いとか、自分にとって意味があるから行動を共にするのです。

しかし、それすらも、いじめにならないように、
私たちが間に入って、グルーピングを無くすような働きかけ行い、個同志の
豊かな関わりを分断していることはないでしょうか。


危険だから。

傷つくから。未然に防ぐため。


このような対応は、子どもの経験を排除していることで、
子どもを全く信頼しておらず、本当に教育的価値はあるのでしょうか。


子どもたちは、このような経験を経て、自ずと気付くのです。


境界線などないということを。
そして、皆、同じ人間であり、他者であるということを。



他者のことは、自分のことでもあるのです。
そして、グルーピングなど必要なく、そこでの関わりが自分自身の成長に不可欠だいうことを気づき、学んでいくのです。


その拡がりに何を気づき、何を学ぶのかは自分の責任です。

 


最後に子ども特性を一つ述べます。

子どもはよく気付きます。

そして、疑問もちます。

あらゆる場面で、気づくことは自らの出来事や物事に関わっているという証拠ですから、私たちはその芽を摘んではなりません。

人が、変わるときは、自分で気付いた時のみです。

そのことは、親、教育者であるならば心にとめておく必要があります。

人から何をどのよう言わようと、
本当の変化伴わないのです。

私たちは、人が変化するときの
目を見逃してはなりません。

その瞬間が多ければ多いほど、
成長していることになります。


身体や年齢の肉体的な成長ではなく、知的かつ精神的な成長です。


そのために、必要なことは、
人との出会いです。

それを私たちがどれだけ多く、そして豊かに広げていけるでしょうか。
自分自身の生き方を省みて、30年後大きく変わるであろう
社会に生きる子どもたちと関わることが大切なのです。

 




良き友をもちなさい。


この言葉は、私の母がよく口にしていました。

良い友達に囲まれることは、自分を大きく成長させてくれるのです。