家庭の力と女性の生命力「ハーバード大学での専業主婦に対する価値観」180度発想を転換させてみましょう!子どもを産み育むことは、女性を磨く時間であり、自分を高める時間でもあるのです。

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今、日本の家庭は、様々な問題と課題を抱えています。

1つの家庭を見ても、子どもを産み育てる「機能」を高めていく

必要があると思います。

 

ここでの「機能」とは、人が人と共に育ち合うための考え方や行動のことです。

 

かつての江戸時代の家庭は、多様な年齢の人達で構成されていました。

一般庶民の子どもは「大人の生きる姿」や「大人の働く姿」を見て育ちました。

特に、女性は家庭を支えていたわけですが、

現代の私たちには、「専業主婦」というようなイメージに映り、

「女は家庭を支えるもの」という一つの考え方に異論がある方もおられるでしょう。

一方で、当時の女性は、高い能力と聡明さを兼ね備えていたと私は思っています。

 

まず、「多産」についてですが、当時の「出産」は日常の一コマであったのです。

だから、産む前日まで普通に仕事をこなしていたそうです。

子どもを沢山産むということは、自分の身体能力の高さを知り、

それを発揮していたということがよく解ります。

 

次に、「子育て」では、非常に多くの人をマネジメントしていかなければなりませんでした。自然の力を借りて育てる農作物、何人もの意志をもつ子どもたちに目を配り、

それに加えて、毎月の月経までも粗相のないように自分でコントロールする力が

備わっていたのです。

つまり、コントロールできない存在を受け止め、それも含めてマネジメントしていたということです。

この力があれば、現代の仕事においても十分に力が発揮できそうですね。

 

女性は、このようにして「母になる」「家庭を運営する」ということを通して、

とても、高度な専門性や技能を身体的にも精神的にも学んでいたのだと思います。

 

子どもを育てるということは、自らが教育者であり、時に医師として、

時に、芸術家として・・・子どもに関わることが求められるからです。

 

このような日常のことが「過酷」な労働であったのならば、

江戸時代に暮らしていた女性は、当時、訪れた外国人の人たちの目に、

「活気のある表情」で、「生き生きと働き」「笑っている」ように映るでしょうか。

それは、紛れもなく「働く」ことも「子育て」も

共に楽しいと感じていたからだと思います。

 

どこか自分の内にある「生命力」への確信と、

未来を創っているという「責任」と「自覚」から自己を豊かに

成長させていたのではないでしょうか。

 

今の日本では、当たり前のように、女性は子どもを産み育てる「時間」に追われ、

その分、会社での会議のプレゼン、資料作成などに時間を費やしています。

 

私たちは外部から「知を得たこと」「資格を得たこと」が

自分の能力を発揮することだと認識していますが、

「本来もっている智恵をつかうこと」を自分の能力として

忘れてしまう時があります。

それをきちんと価値付け発揮できるということは私たちの喜びです。

それは「専業主婦」という概念を超えて

「女性を磨く時間」と「自分の才能を発揮する時間」と

捉えられることができるのではないでしょうか。

 

 

「専業主婦」に対する価値観で、興味深い記事を見つけました。

ハーバードでのカルチャーショック 「専業主婦」に対する価値観:日経ウーマンオンライン【ハーバード流ワークライフバランス】2016.2.23

 

専業主婦という選択肢 同級生に「とんでもない」と言われた。」

 

「ハーバード大卒」なのに「専業主婦」をしている女性の理由 - エキサイトニュース

2013.10.10

兼業主婦が当たりまえの米国社会で、ハーバード大学を卒業後、自ら専業主婦になった米国女性がいる。そんな才色兼備(さいしょくけんび)の彼女が、育児や家事中心のブログを執筆すれば、ネット上で「アンチ専業」攻撃がはじまる。 「兼業主婦VS専業主婦」の戦いをやめ、女性はお互いにサポートしていくべき、とメッセージを送る彼女の生き方をクローズアップしてみた。
ミネソタ州で生まれ育ち、ハーバード大学で心理学を専攻。スポーツ万能で音楽の才能も持ちあわせる4人娘の専業ママ。彼女のブログ『Harvard Homemaker.com』には心理学が反映された育児や有益な家事のアドバイスが紹介されている。彼女が予想していた通り、ブログで攻撃する女性が出現した。
「ハーバードで受けた教育を、専業主婦とフィットネスインストラクターでいるために使っているの?なくなった靴下を探すために、アイヴィーリーグの教育がどう役にたつわけ?努力して手にいれた教育を生かして豊かにするキャリアを持つよりも、洗濯物をソートする女性の能力を価値あるものとする文化にあなたは貢献しているのよ」。
攻撃に対する答えとし、彼女は4ページにわたる記事を執筆。不規則で長い勤務時間や研修が不可欠の医師という職業と家庭の両立はできないという結論にいたった過程や、「過去に成し遂げたことを誇りに思うけれど、今の人生のステージで家の外で達成しつづける必要性を感じない。職場が必要としている以上に、娘たちは私を必要としている」と説明する。
さらに、「私が苦労して得た学位を使って何をすべきか、それを社会に決めさせずに、自分と家族にとって私が正しいと判断した道を選んだことは、称賛に値するのかも」とユーモアを交え、「全てを手にいれる。でも、何が『全て』かはその人によって違う。このことをリスペクトしないと」と個人の選択のちがいを尊重する必要があると説いている。

「家族のニーズが変われば職場に戻るし、また逆の立場の人は家庭に入ればいい」と人生のステージにあわせて柔軟に対応し、女性は「兼業」VS「専業」と憎みあわず、お互いにサポートするべきだと呼びかけている「幸せになるための選択を」。実はこれ、簡単な選択ではありません。他人や社会からどう思われるかに左右されずに、あなたが幸せになる選択をしていきませんか。

 

今の日本の社会も「専業主婦」という言葉が縛るものが多いですが、

本来の価値を再定義し直すことは必要です。

 

私が、大学生の頃に、ハーバード大学の授業を現地の大学生と混ざって

受けた時のことです。(ほぼ言っている意味は分かりませんでしたが・・・)

世界中から集まる多様な女性が互いに意見を交わし、交流していたのを見て

純粋に私ももっと学びたいと思いました。

国籍は違い、ここで学んだことを発揮していく先も違うかもしれませんが、

女性として子どもを産み育て、社会を、地球を育んでいくことへの

同じ志のようなものを感じたこともまた事実です。

 

だからこそ、私は、日本でより子どもを取り巻く環境が

多くの女性が、自分のことや社会のことに目を向け、生物として普遍的な価値を

しっかりと全うできる社会に参画し、生きていきたいと思っています。

 

人生のうちのそんなに長くない「子育て」の時間を「自分育て」として捉えずに、

面倒な時間であり、誰かに頼んでしまう。

 そんなことを放棄する人はいるのでしょうか?

 

私たちは、今、本来女性として生を受け、生物として発揮すべき当たり前の能力が、

違う方向へ向かっていることを自覚しなければなりません。

「身体知」としては知りつつも「社会的常識」に従って生きているために

生じる「矛盾」は、女性進出を応援している制度そのものへの疑問です。

  

私たちは、誰一人例外なく、命のリミットがあります。

だから、女性として生まれた故にできる能力を最大限に発揮していくということです。

 

 

あなたが、作った資料や提案したアイディア、研究結果は、

確かに人類を進化させるかもしれません。

しかし、今の日本の社会ではそれが円滑に純粋に社会に浸透していくかどうかと

考えるととても難しいことです。

なぜなら、全ては「お金」になるか、ならないかで判断されるからです。

 

それが、あなたの求める価値ならば、それを続ける他ありませんが、

時代は変わり、人の考え方も変わります。

3、5年後には、市場がなくなっていることもあります。

 

「今、社会に提案する」という短いスパンで自分の能力を発揮させるだけでなく、

女性は「今に繋がる未来の社会を育む」という長いスパンで能力を発揮させていく

必要があります。

それには、その「価値」を今よりもずっと高くしていかなければなりません。

 

「子どもを育てることは、教育施設に預けることであり、

その教育費を稼ぐために働く。」

 

まず、この発想を180度変えてみるのです。

 

お金という価値に変換できるものではありません。

「そんなことは、綺麗ごとである」とおっしゃる方もおられるかもしれません。

何も綺麗ごとではなく、人類の進化を支えている大切な「責任」を担っています。

 

未来、どのような人が生きるのかは、私たちがどのように生きるのかで決まります。

その決定権は、選挙よりも法律よりも、重く受け止めています。

それも全てを含めた「決定権」です。

 それは、現代日本で暮らす女性全てが担います。

その「決定権」は、年齢に関係なく、全ての人がもっています。

 

子どもたちは、「こんな生き方をしなさい」とか「この進学先にしなさい」とか

そのようなことを助言してもらうことを求めてはいません。

自分と関わる人が、「どのように生きているか」その一点に尽きます。

 

教育とは、何かを伝授したり、享受したりするだけでなく、

自分を生きる過程を嘘偽りなく、表現するということです。

 

そこに、感化されて人は自らを成長させようと努力します。

本来、家庭とはそのような場所でありました。

本来、寺子屋などの教育施設はそのような場所でもありました。

 

人が、自分の意志で学びほぐしたり、真似たり、学び続けられる。

 

そんな場所は、今、ここからでも可能になり、

そこに意志をもつ人がいれば、自ずと始まっているのです。

 

子どもは、如何なる場所でも時間でも、

自らを成長させたいという欲求をもっています。

 

私たちが担う大切なことを忘れないように

しっかりと目を見開いて、感性を磨くと同時に

「生命の知恵」を言語化し、伝えていくことは国境を越えてできるのです。