高校生のデモ参加と選挙権18歳以上の引き下げに伴う「公共」の新設に向けて。高校生のみんなへ。私たちは今、何を学び、どう生きるのか。「学習」の先に在るものとは。

 

高校生のデモ参加の政治活動に加え、

選挙権の18歳以上に引き下げに伴った「公共」の必修化の検討。

高校の新学習指導要領では、公民科のうち「現代社会」の廃止検討がなされ、

かわりに「公共」を必修にしていく意向に今後も目が離せません。

高校生のデモ参加、事前届け出不要 大阪府教委が方針:朝日新聞デジタル

2016.2.18

 高校生のデモ参加などの政治活動をめぐり、大阪府教育委員会は、休日や放課後に校外で政治活動をする際、生徒の事前届け出は不要とする方針を固めた。政治活動参加などの対応指針を記した教員向けガイドラインをまとめ、19日の府教委会議で公表する。

 高校生の政治活動は1969年の旧文部省通知で規制していたが、選挙権年齢が18歳以上に引き下げられるのを受け、文科省が昨秋、校外での政治活動を原則容認する通知を出した。一方で都道府県教委に対し、生徒が校外での政治活動に参加する際は、事前に届け出をさせることを認める見解も示していた。

 届け出不要とした府教委の判断について、関係者は「学校が校外での生徒の行動を逐一把握するのは現実的に難しく、届け出制にすれば事実上の許可制になる恐れもある」と説明。ガイドラインでは「例えば政治集会への参加届の提出を求める必要はありません」などと記載した。

 ガイドラインには、校内での政治活動の原則禁止や選挙権のない外国籍の生徒への配慮についても記載。2年生までに政治に参加する意義や選挙の仕組みなどを学ぶ時間を5時間以上確保することも求めている。

 

「現代社会」廃止を検討 必修科目「公共」新設で文科省 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース 

2016.2.16

「公共」では、考察だけでなく、アクティブラーニングに絡めて、

ディベートなどの手法を用いて、さらに「主体的な選択・判断」を促して

いくような方向になるのではないかと考えます。

そして、政治活動参加への対応指針「デモ参加事前参加届け出不要」

 

高校生に、選挙、公のこと、社会秩序、家族制度などを含む「社会通念」

に関する学習を深めていくことについて、

今を生きる16、17、18歳の高校生に、以下伝えます。

 

 

あなたたちが、デモに参加する場合、

どこで「知識」や「情報」を得るのでしょうか。

テレビのニュースですか?

近くの大人ですか?どこかの団体ですか?

LINEで情報交換し、勉強会をするのですか?

 

大人は、生徒に主体的な判断や考えを教育上、求めるのであるのならば、

人は、その分の「情報」をどこかで自分で得ようとするのが自然な思考です。

 

しかし、現代の社会において、どの情報が信用に値し、

どの情報が作られて流されているのかを主体的に判断するには、

高いリテラシーが必要になります。

 

私たちは、幼いころから、「与えられる情報を疑わずに受け取る」ことや

「ある規準において〇か×か」を判断する学習は繰り返してきました。

しかし、多角的な視点で、〇×を付けられない物事について判断し、決断し、

選んで行動することについては、一切、教えられず、放置されてきました。

その理由については、自分で考えてみるとよいでしょう。

 

 

「政治」に関心を向けることは、

自分の未来を考えることと同じことなので、とても重要なことです。

しかし、私たちはあまりにも「考えないことを教えられてきた」ために、

自分で思考することも、自分の時間を生きることも、

教育上許されてこなかったのです。

 

小学生、中学生の頃の自分を思い出してみてください。

大人がよく言いますね。

「○○しなさい。」

「○○さんも、やっているじゃないの。」

「この高校・大学にいくためには偏差値をもっとあげなくちゃ。」

「君のことを思って言っているのだよ。」

 

と一度「社会」に出た大人は言います。

それに対して怒りや反感を覚えた頃もあるのではないでしょうか。

 思春期などとは関係なく、人として生きるならば当たり前の感情です。

とても健全なことで、生物として「どちらが正しいか」を

自分なりに考え、判断し、思考する時間だったのでしょう。

 

そのような時間を経てもなお、

集団生活を学び、「人とは違うことはいけないことだ」という刷り込みの下、

今のあなたの「価値観」が構築されてきたことをまず認識しましょう。

 

その「思考」は、本当の公共のためではなく、

私欲のために、自分たちの利益ばかりを追い求める人

にとっては、絶好のカモではないでしょうか。

 

カモだなんて!何を言っているの?

やることをきちんとやってきたわ!

社会からはみ出ないように、良く生きてきた!

そのように感じている人ほど絶好のカモです。

 

 

この「社会」は、「私」や「あなた」という存在が生まれる前から

ずっと続いています。

その度に、人間が作ってきたのです。

法律や制度があれば、人は守らなければならない。

そうでなければ、人としての営みはできなくなると私たちは思います。

では、その制度や決まりは、誰のためのものでしょうか。

 本当に私たちを守るためのものなのでしょうか。

 

 

本来、私たちは、生きることそのものを楽しみながら生きてきたのです。

自分の成長を喜び、他者を関わることで視野が広がり、

心のひだを増やしてきました。それが知恵となって受け継がれてきたのです。

 

 

しかし、今の社会を見渡してみましょう。

道行く人を観察してみましょう。

そこを見ることは、教科書に書かれていることよりも事実に近いです。 

 

 

 

人間としての普遍的な価値を無視することばかりが目立つようになりました。

 

人間の体に悪影響を及ぼす食品ばかりが目立つようになりました。

 

私たちの思考を低迷させる情報ばかりが目立つようになりました。

 

そして、私たちの「私欲」ばかりを高ようとする人が目立つようになりました。

 

 

このような社会に生きる私たちに、「公共」で何を考えろと言うのでしょうか。

アクティブラーニングで、「自主的に自発的に行動すること」を教えるのでしょうか。

 

 

それは教育において、「放置」にすぎません。

「過保護」は、それ以上にいけないことですが、

「放置」することも、教育とは言えないのです。

 

 

もしも、地球が1つの家族だったら、

誰が、弟が危険な状態にあっているのを放っておくでしょうか。

兄が、間違えたことをしていたら必ず「違うよ!」と伝えるでしょう。

妹が出産したら、年齢問わず「おめでとう」と言うでしょう。

 

私たちは、何に縛られて生きているのか。

 

それは自分の自己肯定感の低さでもなく、家族の問題でもなく、

社会の常識の問題でもなく、

 

あなた自身のなかの「生物の普遍的な価値」に矛盾せずに生きる強さから

背を向けている「弱さ」でしかありません。

 

この社会が悪いのですか?

これまでの先人の人が悪いのですか?

この社会を私欲でコントロールしようとしている人のせいですか?

 

違うのです。

その人も同じように「今」を生きている。

大木のように、人間は1000年も2000年も生きることはできません。

生きてたった100年。

たったの100年間です。

 

そのなかで、私たちは自己成長し、家族をもち、他者と関わることで

少しでも身体的・精神的に豊かになって死んでいくのです。

そして、皆がよりよい後世へ知恵を繋ぎ、託すのです。

そのようにして、大木が1000年生きる間に、

人間は入れ替わり立ち代わり「今」を生きています。

 

その中でそれほど大きく変革するものは、少しもないはずです。

そんなに必死になって「価値を変える」必要はあるでしょうか。

 

私たちは、自分たちで解決するための「言葉」と「感情」と「倫理観」

をもっています。

それを使わずに、第三者が勝手に割り込んで、物事を進めていく。

そんな時間は、私たちの成長に必要でしょうか。

 

 

 

自分を大切にすれば、他者への思いやりが自然に溢れてきます。

なぜなら、社会も「私」も繋がっているからです。

「社会」とは「人」と「人」の集合体で成り立っているのですから、

常識や社会通念を学ぶよりも、どんな人がそこに生きているのかを

知ることのほうが大切です。

 

どのような価値観をもった人が多くなれば、より生きやすくなるのかを

現代社会通念」を規準にするのではなく、

あなたが生まれてからずっともっている「普遍的な生物として生きる価値」

を規準に再度、学び直しが必要なのです。

 

それは、高校生だけでなく、大人も含め社会に存在する

私たち1人1人が考えていくことは、現代社会に生きる人間の「私欲」のために、

後に作ったシステムよりも尊いことなのです。

 

年を重ねるほど「社会の常識」から抜け出せなくなります。

それは、生きることを放棄した死に近い状態です。

 

毎日、添加物や化学調味料を食べ続け、

スマートフォンやパソコン、ドライヤーなどで強い電磁波を浴び続け、

ラインやゲーム上で、エネルギーの発散をし、

高い塾代を費やし志望校に入り、バイトに明け暮れ、

会社に入ったら奨学金の返済に追われる。

重い奨学金で破産も 経済格差が希望格差に|日テレNEWS24

2016.2.16

 

そして、気が付けば人生を終えていた。

なんていうこともあり得るのです。

 

看護師が死目の前にした患者の呟く言葉で、

「あんなにも必死で働かなければよかった。」

「家族といる時間を大切にするべきだった。」

「子どもを産めばよかった。」

「ごめんねと言えばよかった。」

「ありがとうとあの人にもう一度あって伝えたい。」

をよく耳にするそうです。

 

 

目の前にある「今」という時間は、

あなたにはもう二度と戻らない「生命の時間」です。

こうしている間にも、身体は、動き、細胞は入れ替わっています。

 

「命」の時間を、どのように使うかは「自由」です。

と申し上げたいのですが、現代社会を生き、この時代を生き抜くならば、

強い意思と素直さ、自分に正直に全うに生きることの責任です。

その先にしか自由はありません。

無知でいること、無関心でいることは、「生」の反対を意味します。

 

自分で考え続けること。

思考することをやめないこと。

生物としての普遍的価値を認識すること。

 

それが、学ぶということです。

 

 これからは、呼吸することと同じくらい自然にそれらを

していかなくては、生きられない社会なのです。

いつまで、おんぶにだっこされているのでしょうか。

一刻も早く、自分の足で歩むことを覚えるのです。

 

 

それは、誰かに教えられるものではなく、

 自分を自分が教育していくことそのものです。

 

唯一の希望は、私たちには、まだそれだけの知恵があり、

思考できる余白が残っていることです。

 

高校生のみなさんであれば、そのことについて

感度の高い感受性で、物事をみることができると信じています。

 

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