「余った弁当を貧困児童に」本来、児童貧困という言葉は存在するのでしょうか。貧困・裕福など関係なく、どの家庭も同じように抱える根本的な問題に目を向ける必要があります。

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「児童貧困」の対策や対応については、それぞれの市町村で

早急の課題となっているようです。

しかし、「児童貧困」という言葉ばかりが、一人歩きしてはいないでしょうか。

 

私は、下記の記事を見た瞬間に、現代社会の子どもを取り巻く環境が

ここまで悪化してきたのかと危機を感じずにはいられません。

 

余った弁当を貧困児童に 福岡県がコンビニ、NPOと連携 - 西日本新聞

2016.2.16

 福岡県は、子どもの貧困対策の一環として、コンビニエンスストアで販売しなくなった消費期限前のパンや弁当、おにぎりなどの食品を無償提供してもらい、NPO法人などを通して貧困世帯の子どもたちに届ける仕組みを新年度に創設する。コンビニの余剰食品を再利用する取り組みは横浜市が2006年に始めたが、都道府県レベルでは全国で初めて。

 県はまた、食べられるのに廃棄される食品を企業から提供してもらい、生活困窮世帯や児童養護施設などに届ける「フードバンク」活動の支援事業にも新たに乗り出す。売れ残りやラベルの印字ミスなどで廃棄される食品は県内では年間25万トンに上るとされ、こうした「食品ロス」の削減につなげるのも狙いだ。

 県によると、コンビニ弁当などの再利用は、包括提携協定を結ぶ大手チェーンに協力を要請。販売期限が過ぎても、消費期限は来ていない食品を店舗で提供してもらう。自治体の委託などで生活困窮世帯の児童に学習支援をしている民間団体や社会福祉協議会のスタッフが店舗まで食品を受け取りに行き、学習支援の会場で子どもたちに配布する仕組みをつくる。

 県内には公民館などを使った貧困世帯の学習支援会場が37カ所(県把握分)あり、初年度は3分の1程度の団体に、食品の運搬に必要な人件費などの経費として20万円ずつ助成する。新年度予算案に260万円の事業費を盛り込んだ。

 県福祉労働部は「月に1~2度、居場所づくりを兼ねて手料理を提供する『子ども食堂』とは異なり、地域で恒常的に子どもたちを支援する仕組みをつくりたい」としている。

 フードバンク活動には全国40団体が取り組むが、県内では北九州市NPO法人「フードバンク北九州ライフアゲイン」だけ。活動普及のため、県は新年度予算案に1170万円を計上した。モデル事業として民間の1団体を公募で選出。廃棄前の食べられる食品を企業から提供してもらい、生活困窮者の支援を行う自立相談支援事務所などで提供する。人件費を2年間補助し、課題も検証。新たな担い手となり得るNPOの実態把握や、協力を得られる企業の開拓も進める。

 

子どもの貧困対策=コンビニ弁当の提供

そもそも、余剰食品を生むシステムがいけないのは言うまでもありません。

 

コンビニ弁当を食す子ども=貧困

というイメージが先行しますが、これは間違いです。

それに加え、添加物や化学調味料などを含むものを子どもに手渡すこと自体が

間違っています。

今よりも、悪循環に繋がります。

 

そもそも、子どもの貧困と

OECDによると2005年の日本の子どもの貧困率は14.3%となっており、約6人に1人が貧困状態と言われています(2009年の厚生労働省調査によるとは15.7%)。
子どもの貧困とは、等価可処分所得の中央値の50%以下の所得で暮らす相対的貧困の17歳以下の子どもの存在及び生活状況を言い、一般的な水準の半分にも満たない水準で暮らしている子どもたちがどれだけいるのかということを指しています。 
このような日本における貧困率は下図のようにOECD平均値を超えており、世界水準でみたら高い水準であることがわかります。

 http://3keys.jp/state/ (参照)

とあります。

 

 

私は、裕福な家庭でも、貧困な家庭でも、

子どもの「心の豊かさ」と「健全・健康な豊かさ」で図った場合、

同じレベルであり、ほぼ変わりないと思っています。

 

 理由は、近年の子どもたちの様子をつぶさに観察していると、

貧困と呼ばれている家庭でも子どもは豊かに育つことはできますし、

裕福と呼ばれている家庭でも、本来の豊かさにかけている場合もあるからです。

 

 

児童貧困=かわいそう

 

それは、先進国と呼ばれている国の人が、発展途上国と呼ばれる

人たちを見て感じる気持ちと同じ意味です。

「お金やものを恵んであげなくればならない。」勝手な判断です。

そのなかで文化や自然を大事にして暮らしているにも関わらず、

それをどんどん潰し開拓し、さらに貧困を生むような仕組みを

作り上げていくのです。

そうやって、支援していると思っているのは、こちらの自己満足であり

本来であれば、手を出してはいけないところです。

 

その縮図が、上記記事の事例です。

 

 

 

まず、私たちの「子育て及び教育環境」に目を向けた時に、

子どもにとって、やさしい建築

子どもにとって、安全な食

子どもにとって、安心できる情報

子どもにとって、遊び道具

は、ほとんど目にすることはありません。

 

 

多くの人が利用するスーパーマーケットには、添加物などを含む食べ物が、

きれいな色の箱と誘惑するような文言や言葉と、共に並べてあります。

 

子どもの身体を壊すような、強い電磁波を発する道具があちらこちらに

存在し、身近な大人が使っています。

 

高層マンションなどで暮らす世帯が多いですが、

その分子どもの転落死も多発しています。

土を踏める高さで生活することは、乳幼児期の空間認知には、とても重要なことです。

空と地面と自分の位置を意識し、いつでも土に触ることのできる感覚を

子どもの取り巻く環境では配慮したいものです。

 

また、テレビ番組による情報過多。

バラエティ番組や芸能人の言葉をそのまま覚え、

それを使うことによって、偏った価値を高めてしまいます。

なぜ、CMがあるのか。

どのようにドラマや幼児番組は作られているのかを親は知っていなくてはなりません。

子どもに見せるべきものなのか、見せなくてもよいものなのかを

取捨選択する分別する目を持ちましょう。

 

他にも、薬、ワクチン・・・・など、まだまだあります。

 

 

大切なことは、これらを排除するために躍起になるのではなく、

不安に駆られるのでもなく、まずは、知ることです。

私たちは、もう無知ではいられないのです。

 

私たちの「子育て」は、その土台の上で行われていることを認識し、

受け止なければなりません。

 その上で、今をどのようにして生きるかを考えることです。

 

それらは、人間の欲を刺激させるものばかりです。

お金があると便利ですが、お金ばかりを追い求めても、

健全で健康な生活には繋がりません。

 

つまり、裕福な家庭=健康な家庭

ではないのです。

 

人として生きる上で、子どもは健全・健康な生活を営むことすら、

難しい社会ですが、知恵をつかって1つ1つ外していくことは可能です。

 

 

普通に生活していても、子どもの本来の力が発揮できない社会です。

しかし、子どもは、自然の感覚を取り戻のが早いですから、

その状態が心地よいと感ずれば、身体知として記憶します。

 

 

シンプルに、生物として生きるための自然な「生命力」を発揮できる

環境を、私はつくりたいです。

 

裕福であろうが、貧困であろうが、

どちらも、同じように今すぐに始めなければなりません。

 

そうして初めて、児童貧困という言葉など、

無いと知るかもしれません。

 

本当の児童貧困は、自分の「生命力」を発揮できず、

あらゆる社会毒に呑まれてしまった子どものことを言うのではないでしょうか。

 

それは、子どもだけでなく、私たち大人にも当てはまるのです。

貧困も裕福も人間が作りだした概念なのです。

そこに縛られる必要はなく、自分の「生命力」を信じて、

健全・健康に生きることを求めることは、貧困や裕福などとは関係なく、

本当に、子どもを大切に思い、子どもを育てる社会であるならば、

私たち1人1人の「在り方」が変わっていくのでしょう。

 

そこに自分だとか他者だとか境界線はないのです。

自分一人でよくなることもできず、

小さな自分の選択と判断の連続が、この環境を良くしていく

大きな一歩になっているのです。

 

 

 

「児童貧困」の意味から、「貧困」と「豊かさ」の関係について考える。あなたは、どちらを選びますか。私たちが、今すぐに始められること。 - familylearning-fullの日記

2015.12.07