「遊具による子どもの事故」公園から姿を消す遊具「使用禁止」を目の前にした状況で、子どもは何を学んでいるのか。

 

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子どもの「遊び場」公園にある「遊具」での事故は、増すばかりです。

勿論、子どもは自然の中で木登りや、虫取りなどの自然観察を通して、

遊ぶことに勝るものはありません。

 

しかし、都会で暮らす子どもにとって、「公園」は、

教育施設という枠を超えて、地域に根差し、「自由」に

唯一「青空の下」遊べる場所でした。

 

東京消防庁<安心・安全><トピックス><遊具に起因する子どもの事故の発生状況>

場所別の事故発生状況をみると、すべての年齢で、公園・広場等が最も多くなっています。

 

遊具別にみると、すべり台が991人と最も多く、次いで、ぶらんこ(603人)、うんてい、ジャングルジム、鉄棒と続いています。

 

うんてい、鉄棒、のぼり棒・すべり棒など、高所から落ちる事故が、搬送人員も多く、また、ぶらんこではぶつかる事故も多く発生しています。そのほか、回転式遊具で勢いがついた状態で転び、大けがとなっている事案が3件あり、中等症以上の割合が高くなっています。

 

このような事故が起こるたびに、「遊具」は姿を消します。

 

【路上感撮】取り残されたブランコ - 読んで見フォト - 産経フォト

2016.1.27

  東京都杉並区に広がる閑静な住宅街。阿佐ケ谷南から高円寺南の住宅街をぬうように続く細い遊歩道を歩いていると突然、道をふさぐようにブランコが現れた。

高度経済成長期に遊歩道の一部を馬橋(まばし)児童遊園として遊具を設置、都内の子供の遊び場不足解消に一役買っていた。かつてはすべり台などもあったが老朽化のため数年前に撤去された。通行の障害になるなどの理由から撤去した遊具の再設置はされない予定だ。

 遊歩道は周辺住民らの生活路、道行く人は当たり前のようにブランコを避けながら歩く。日が暮れ始めると、薄暗い遊歩道に立つ街灯に照らされ、時代に取り残されたブランコは怪しげな光を放っていた。

 

かつては、当たり前のようにあった、ジャングルジム、滑り台、ブランコ、

シーソー、登り棒、太鼓橋、回転式ジャングルジム、箱型ブランコなど。

今では、懐かしいものばかりです。

そして、砂場・・・

近年「砂場」の砂が汚いということで、レジャーシートを敷いて管理する

公園も少なく、すぐに撤去する風潮もあります。

 

 

「消える遊具」

 

www.youtube.c

作品紹介

武蔵野美術大学 田島紗月 上嶋萌 河口朋葉 服部愛弓 福岡晃久
 今、全国の遊具の総数が減っている。過去にマスコミで取り上げられ、一時は世間の注目­を浴びたが、その話題が消えつつある今も、遊具の数は減り続けている。主な原因は安全­性への疑問や点検にかかる費用の不足である。私たちは、遊具が実際に消える過程を体感­した世代であり、消えていく遊び場への寂しさを肌で感じた。今回、多くの人に向けて表­現できる機会を得て、このCMの制作に取り組んだ。この作品を通して、子供たちに再び­外の遊び場を与えるきっかけを作れたら、と思う。

 

私たちは、遊具が、撤去されたり、「使用禁止のラベル」が張られていたり

するところをよく目にします。

 「我々はこのような対応をしている。責任は最小限におさめたい。」

ということろが管理側の本音でしょう。

 

しかし、「人の学び」を考えた時、乳幼児は、生活そのものが「学習」なので、

このような、現代の状況下においても絶えず学習をしています。

 

では、どのようなことを学習しているのでしょうか。

 

ここでは、「子どもにどのような影響を及ぼすのか」について

考えていこうと思います。

 

 

まず、遊具を使うことで、家庭での生活では経験しない、

体の動きやバランス感覚、筋力など「身体」を鍛えることができます。

それが、「遊び」のなかで獲得できるのですから、その役割は重要なものです。

都会で暮らす子どもたちにとっては、「公園」という場は、絶好の学び場でした。

 

「公園」は、遊具のみならず、このようなオープンスペースは「交流」の場として、

地域の子や親同士の「関わり」を育んでいました。

 

夕暮れの音楽がなると、どこか寂しい気持ちで友人と別れ、

「また明日!」と言いながら、家まで帰ったこと。

公園デビューと言われ、初めて我が子を連れて公園に行ったら、

お年寄りの人や、近所の先輩ママとのちょっとした話から、

子育てのヒントや知恵を得たり、ゆとりを生んだりする。

このような「文化」が育まれる場所でもありました。

 今、日本には、このような場所が「生きて残っている」

ところは、いくつあるのでしょうか。

 

 

次に、子どもと遊具の関わりについて見ていきましょう。

 

乳幼児が見る世界を想像してみると、

わずか、1メートル下には、固いコンクリート

鉄筋で覆われた建物が視界に広がります。

現代では、「土」や「砂」を触れることも、「稀」なことです。

この時期に、「触覚」から得られる「感覚器官」を発達させ、

広げていく経験を積ませることは、とても大切なことなのです。

 

 

私が、今一番、懸念していることは、

撤去もされずに、「使用禁止」と貼られている遊具をそのままの状態にして

子どもの目の前に存在させているという状況です。

 

子どもからすれば、目の前に大好きな食べ物があり、

それに「手を付けてはいけない」と言われているから、

食べたいけれど、手を付けない・・・それを守れる子はいるでしょうか?

 

守れる子=よい子  

守れない子=悪い子

 

このように単純に決めつけるのは良くないことだと知りながらも、

私たちはよくそうしているでしょう。

胸に手を当て考えてみると、思い当たる節のある方もおられるのではないでしょうか。

 

 

つまり、子どもは「決まり」があるから「本能から沸き起こった行動を抑制する」

ということを学習しています。

 

勿論、理性を育てていくことは重要ですが、社会的通念に当てはめることと、

生物として生きるための理性を高めていくこととは、別のことであるということを

私たちは、知っておく必要があります。

 

子どもは、好きなもの、触れてみたいものを目にしたとき、

思考よりも体が先に動くのが常です。

かつて、遊んでいた楽しい記憶のある「遊具」がある日突然、

触れてはいけなくなる。

子どもにとって、これほどのショッキングな出来事はあるのでしょうか。

 

「どうして、ダメなの?」

 

「危ないからよ。」

 

「・・・・・」

 

そのような親子の会話が、今この瞬間も日本中で飛び交っていることでしょう。

  

 

では、この体験を通して学習した子どもは、どうなるのでしょう。

 

数年後、もし、この遊具が使用できるようになったとしても、

手を付けない子どもが大勢いるはずです。

 

つまり、

目の前にある「生物として在る好奇心・探求心に変わる価値」を

「価値」だと認識できなくなるのです。

 

それは、とても、おそろしいことなのです。

例えば、野生で生きていた像が、足首に鎖を繋がれ、飼われることになり、

数十年を経た時、その像は、逃げずにその場に居続けることができます。

 

また、ある魚を水槽のなかに入れ、餌の魚も同時に入れます。

魚は、一瞬で獲物に食らいつきます。

次に、真ん中に透明の板を入れて、分断します。魚は、何度も食らいつきはするものの、顔が板に追突し、エサを取れない状況が続きます。

しばらくして板を外すと、目の前に泳ぐ獲物を食べなくなるのです。

 

 

そうやって、生物として生きる「価値」を本能では知っていても、

あらゆる「社会的・物理的要因」や「常識」や「決まり」などを設けることによって、

制限され、人は、本来の「価値」を「価値」と認識しなくなるのです。

 

 そして、その世界が、今自分が生きる一番広くて自由な世界なのだと勘違いします。

 

現在、どこの公園でも見られる「使用禁止」の遊具が、

子どもにとって、悪循環となる「学習」の場として、

社会が提供していることに、まず気が付かなくてはなりません。

 

私たちは、「遊具」=「危険」=「使用禁止」だということの「きまり」を

子どもに認識させることに時間をさくのではなく、

子どもの「身体能力の発達」と「遊具で遊ぶための方法や体のつかい方」

を、共に在る時間をつかって、考え、示し、生きていきたいです。