「私立中学入試本格化」受験と一本松 「学び続ける力」は現代を「生き抜く力」であり、生きることそのものなのです。

都内で私立中学入試が本格化 小学生増で二極化進む(テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース2016.2.1

 東京都内で、私立中学校の入学試験が1日から一斉に始まりました。

 東京・港区の麻布中学校では、試験開始の1時間半前となる午前7時半ごろから受験生が次々と姿を見せました。付き添いの保護者や学習塾の関係者から最後の激励を受けて、子どもたちが受験に臨みました。
 保護者:「きょうで最後なので、できる限り頑張ってきます」
 受験生:「頑張ります!」
 最近は難関校で競争が激化する一方で、定員確保に苦労する学校もあるなど二極化が進んでいるということです。都内では1日から始まる私立に続いて、3日に国立大学の付属中学と都立の中高一貫校などで入試が行われます。

 

現在、日本で受験は「常識」のようになっており、年々、加速しています。

 

しかし、今、子どもたちが一番知りたいことは、

「何のために勉強するのか。」ということです。

 

   「僕は、何の為に、勉強をしているのか。」

 

「ゲームを買ってもらえる。」

「お金がもらえる。」

図書券がもらえる。」

という物質的なものを手に入れるために努力をしても、身に付きません。

 

勿論、ある1つの目標に向かって「知的活動」を行うことは、

とても大切なことです。その過程で学ぶことは山ほどあります。

 

しかし、目の前にぶら下がったニンジン欲しさに、走り続け、

それを獲得した時の欲求が満たされた時の

「幸福感」と「学び」がイコールになることに、私は懸念しているのです。

 

それは、その時の一過性の教育に過ぎないのです。

 

また、近年、「勉強すれば、時間がもらえる。」という言葉をよく耳にします。

 

「僕は、時間が欲しいんだ。」

 

どういうことでしょうか。

 

既に、あらゆる「物」テレビ・ゲーム機・スマートフォンipodなどの

物質的なものは、子どもたちは、すぐに手に入ることを知っています。

 

そして、このようなエンターテイメント性を含むものは、

外発的な楽しさであり、一時の欲求を満たし、依存性があることを、

私たち大人は知っていなくてはなりません。

 

 

子どもは、「何もないところから、何かを生み出す能力」に長けています。

そして、それが自分自身の内発的欲求を満たす、楽しさに繋がることも知っています。

 

 

ここでの「時間」とは、

「自分自身の欲求から湧き出てくる  楽しさ を実現できる時間」

のことだと私は、捉えています。

 

物質的な「物」よりも、「名誉」よりも、

子どもたちは「時間」が欲しいのです。

 

つまり、好きなことをする「時間」と「空間」が欲しい。

そう思っている子が日本中に何人いるでしょうか。

 

もう一つ、「学び」について付け加えるとすれば、

どの家庭に生まれても、知的活動は可能だということを

子どもは、知らなくてはなりません。

 

「あの人は、どこどこで勉強しているから。」

 何て言うことは関係がないのです。

勉強したければ、図書館、本屋、インターネットなどで、

「自ら」学習する環境に自分自身で身を置くことができるのです。

 

人間、どのような環境が与えられていても、自分でそこに気付き、

使わなければ、意味がないのです。

どれだけ恵まれた環境にいても、そこに「気付く感性」がなければ、

この先、生きてはいけないとはっきりと言えます。

 

そして、未来、生き抜くためには、

「情報をインプットし、その通りにアウトプット」できる人間

ではなく、

「あらゆる情報を批評的、構造的に見て、自分の言葉でアウトプット」できる人間

でなければ、生き抜いていくこともできないでしょう。

 

厳しさでもありますが、それが現実なのです。

 

つまり、自分の感性で物事を読み取り、自分の思考力をつかって、

如何に、行動できるということです。

 

それは、受験や義務教育を経て、社会人になったからと言って、

完了することはありません。

 

「学び続ける姿勢」こそが、生きるということ  そのものなのです。

 

これは、教えて身につくようなものでもなく、

ある一定の期間があれば身につくようなものでもなく、

ある特別な講師に指導を受ければ魔法のように

身に付けることができるということではありません。

 

このような「学びのセンス」は、誰にもあるのですが、

残念ながら、現在の環境では、それを自分で意識し、生きていかなければ、

あらゆる事に流されてしまうのです。

 

 

 

 

東日本大震災が起こった時に、陸前高田市にある一本の松がそびえ立っていました。

その松を人々は「奇跡の松」「希望の松」と呼びました。

どうして、その松は生き残ったのでしょうか。

それは「しなる」ということからきた「強さ」です。

 「柳に風」という諺のように、相手の強さを上手く利用するということです。

 

頑固に、力づくで立っていては、すぐにポキッと折れてしまいますが、

外からの力に従って、上手く、自分自身をコントロールすることです。

 

それは、柔軟であり、寛容であり、根が張っていなければ、

そのような外的な力に負けてしまいます。

流されず、潰されずに、生き抜くためには、この「強さ」が必要なのです。

 

そして、それが可能だということを、自然のなかの「一本松」は、

人類の智恵として、教えてくれているような気さえします。

 

 

私たちの「学び」は、終わりを迎えない

 

そして、大人も子供も、関係なく学び続けることは、

未来、当たり前の感覚になるでしょう。

 

それは、「教える」「教わる」という関係を超えて、

「共に学び合う」という関係性へと教育も移り変わっていくのだと思います。

 

 

子どもは、大人の「学び続ける」姿勢に感化されて、自身も負けずに学びます。

いくら、はち巻きをして、旗を振って、我が子を応援しても、感化されません。

 

同じように、「学び続けている。」

この人と人との真剣勝負は、受験よりも尊い「目標」なのだと思います。

 

「学び続けることを止めないこと」

それが、今、私たちにできる唯一の方法なのです。