この冬、「今」の私が考えること。

 今年の冬は、一度も暖房をつけませんでした。

「寒さ」でぴしっと背筋が伸びるこの自然な感覚も

とても心地のよいものだと感じています。

 

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雪が降り、今にも凍りそうな空気。

体温が、とても温かいと感じる感覚。

 

日本には、四季があり、この四季を私たちは大切にしてきたことも

見えなくなる時があります。

 

いつの間にか、この「寒さ」も感じることができずに、

電気やガスのお陰でいつでも、暖かい場所に居られることが可能な

世の中になりました。

いつでも、どこでも食料が手に入ることと同じ事です。

 

私たちは生物でありながら、

どこか生物としての感性を鈍化させているようにも感じています。

 

生きる「リズム」の歯車がくるい始めているような気さえします。

 

この話はさておき、

今日は、子どもの一言から、

考えを巡らすことになりました。

そのことについて以下、記したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

「誰かのために何か役にたちたい。」

 

「何かのために自分ができること。」

 

 

という気持ちは、いつから芽生えてくるのでしょうか。

 

「私が、やるね。」

「一緒にやろう。」

「お先にどうぞ。」

「私は、そう思うけれど、あなたはどう?」

「同じ気持ち!嬉しいね。」

「このアイディアどう思う?」

「いいね!すごくいい!」

「それは、やってはいけないことだよ。」

「私には、なにができるかな。」

「あなたのそういうところ、尊敬する。」

「ありがとう。助かった。」

 

 

誰かからの称賛を求める

自己主張を超えてある  この気持ち。

 

子どもは、いろいろな状況のなかで、学んでいます。

きっと、それは大人が思っている以上に、感じて学んでいるのです。

 

そんな呟きが生まれ、その度に、人と暮らす楽しさを味わい、

自然に共同体ができていきます。

 

人は、人との関係のなかで、育ちます。

そのことの意味を私たちは、もう少し深く考えなければならないと思っています。

 

唯一、私たちの成長を支えるものは、人との「出会い」かもしれないと

思う時があります。

 

「これが、学習だよ。ほら、これが今日の課題。この時間までにやるのよ。」

と、昔、日本でもそのような教育をしていた時があったことを、

あなたの孫はその娘に話している、未来もそう遠くはありません。

 

 

地球上には様々な価値観、思想をもつ人たちが住んでいます。

そして、それ以上にたくさんの動物、微生物が暮らしています。

互いに、進化し、共栄し、共生できるための人間のもつ知恵を

私たちは、発揮する必要があるのだと思います。

 

この多様で自然な状態は、本来、バランスよく保たれているはずなのですが、

手を加える度に、かたちを変えて、後世へ残すことになります。

 

私たちの地球では、いつの時代も、誰かが普通に暮らし、生きることそのものを喜び、

人を愛し、人に学び、人に感化されながら、「生」を全うしていました。

 

しかし、残念ながら、そのような人達を、支配しようとして、自分のことばかりを

考える人たちもいます。

 

 

しかし、私たちが「今」ここで生きていることは、意味があり、

そこに「私」という意思をもち、生きている人間がいることも、また事実です。

 

同じように今より、もっと前にも、同じことを感じて生きて死んでいく人もいました。

同じように、これから、そのように感じて生きていく人もいるのだと思います。

でも、その人たちと同じ時間を生きることはできません。

 

私は、今、生きているこの時間のなかで、「生」を全うすることしかできません。

そう考えると、あらゆる「出来事」や「常識に括られた世界」が芝居のように

感じる時もあります。

 

 

何のために、生きているのか。

 

私たちは、生まれてきたのか。

 

 

そんな日常を生きていた時、

ふと、小さな声が聞こえてくるのです。

 そして、はっと気づくことがありました。

 

 

「ねぇ、人間はどこからきたの?」

「昔、さるだったのはほんと?」

 

と子どもが、ふと疑問に思う気持ちが分かるのです。

 

 

その答えは、私は自分の目で見て、確かめたことのないことですから、分かりません。

この世界には、分からないことの方が多いのです。

 

私は、誰かに、分からないことがまだまだ山ほどあるということを教えてほしかった。

誰かに、答えは一つではない事実を教えてほしかった。

私たちの社会を私欲だけで作り上げようとしている人たちがいることを

教えてほしかった。

その中で、生きているけれど、その社会を作っている担い手であり、

無関心で居られないことを教えてほしかった。

自分の無限の可能性を信じ、自由に発揮できる世界を創造できることを、

教えてほしかった。

 

 

しかし、「教えてもらう」なんてこと、実は不可能なのです。

 

では、できることは何でしょうか。

 

それは、「自分で気付く」という小さな小さなプロセスです。

間違いも、失敗も、成功も含まれる、「気付き」と呼ばれるものです。

 

それに、自分で気付くという過程が、何にも増して「自分の成長」に繋がるのです。

 

自分を成長させることは、家族・社会をより豊かにしていくこととイコールです。

同じことであると言えます。

 

残念ながら、1人で、より良くなっていくことはできないのですから、

他者と切磋琢磨し、磨きあうことでしか、「今」を生き抜く方法はありません。

 

疑問をもつことは、とても素晴らしいことであり、

あなたのその疑問に、答られる人はいないと考えた方がよいのです。

 

誰かに、答えを求める人になってはなりません。

 

自分で、見つけ出すには、思考し続けることを止めないこと。

自分の目で見て、聞いて、感じることに自信をもつこと。

 

私は、そうやって生きていきますし、

後世を生きる大切な人にも、そのことを大事にして生きてほしいと

心の底から願っています。

 

 

 

この冬、「今」の私が考えること。

 

 

考えは、これからも、きっと変わっていくのだろうと思います。

だから、「今」感じること、考えることをここに記しておきます。

 

冬眠から覚めるリスのように、

春になるのが、待ち遠しいです。

 

2016.1.29