人と関わるということ

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世界には、いろいろな「信号機」があります。

 

これはNYの街の様子ですが、ちょうど、向こう側にも信号機がありますね。

外国を旅するときに、この信号機の違いに着目して、

町を歩いてみると、案外面白い発見があったりします。

 

 

私は、以前、イタリアに行ったときに「信号機」がない街がありました。

タクシードライバーの運転の荒さと、あまりにも近距離を走る車に

驚いたのを記憶していますが、ドライバーが目的地まで、

あっという間に連れて行ってくださいました。

旅先での「人との出会い」は、文化や言語を超えて、学ぶことがあります。

 

 

 

そんな時、

ふと「信号機がなくても、事故を起こさずに生活できるなんてすごい!」

と思ったことがあります。

 

 

 

 

この「信号機」何のためにあるのでしょうか?

 

 

 

 

  • 多くの車が、ある一定の規則を守ることで、事故を防ぐことができる。
  • 乗り物と人が、共に生活するには、決まった「道」と「時間」を整備することで事故を防ぐことができる。

 などが挙げられるでしょう。

 

 

私が、生まれた頃には、「信号機」も「道路」も整備されていたので、

私は、その社会しか知らないのです。

 

 

もし、それ以前の町や村を想像してみると、

まだ、整備されていない「道」に人や乗り物が行き通っていた。

 

そこで、人々はどのように生活していたのでしょうか。

 

 

アイコンタクトをしたり、譲り合ったり

また、

相手の動きを予測し、間合いを測りながら、

生活していたのではないでしょうか。

 

つまり、そのための

生きる「身体感覚」が必要だったのです。

 

 

しかし、そのような中でも、何件か「事故」が起き、

「ここに、信号を付けよう!」

「ここにも、信号機がいるよ!」

「ここには、歩道橋もいるね!」

とどんどん町を「整備」していったのです。

 

 

 

整備とは:       すぐ役立つように準備したり整えたりすること。

 

 

 

 

 

では「整備」することで、事故は防ぐことができるのでしょうか。

 

これは断定できるものではありませんが、

それだけでは、事故を防ぐことは残念ながらできません。

 

しかし、気が付けば、1つ、2つ、3つ・・・・と

何か「事故」が起きる度に、「信号機」が作られ「決まり」が生まれることに

なるのです。

 

本来であれば、10分で行ける場所が、信号がいくつも付くことによって、

20分かかる場所へと変わるのです。

 

 

その道のりでも、道行く人と会話を交わしたり、

止まってくれた車にお辞儀をしたり

そうやって、いくつの「関わり」や「コミュニケーション」

が生まれていたのでしょうか。

 そして、街に溢れていたのでしょうか。

 

 

 

つまり、信号機があることにより、

 

社会が、ある一定の基準で「整備」され、「決まり」が増すことは、

 

人として生きる上で大切な「関わり」を無くしていくことでもあるのです。

 

 

 

 

 

あなたは、今、横断歩道の前で立っているとしましょう。

 

赤から青に色が変わりました。

だから、進みますか?

 

「赤だから止まる」

「青だから進む」

 

そのように、判断し、行動することは、大変危険なことです。

 

 

大事なことは、周囲の状況をよく観察し、確認するということです。

 

進むか、進まないかを自分で思考することが、

生きる上でとても大切なことなのです。

 

 

つまり、

人が作った「道」は、あくまでも「人が作り、整備されている」

そのような状況の中で、今、私たちは、生活しているのです。

 

 

規則正しく、人々が生き通う姿。

 

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私たちは、今、「時間」と「空間」を決められ、その中で生活しています。

 

 

鳥になって、町を俯瞰して見渡すと、一日、同じような動きをして

人々は、行ったり来たりして、生きています。

 

 

そして、この「信号機」と共にある生活は、

私たちの「行動」も「思考」にも影響しています。

 

私たちが「自由」だと認識しているのも、そのなかのものです。

 

 

私は、人が本来もっている「能力」とその「可能性」は、無限であると

多くの子どもと出会い、確信しています。

それは、人の数だけ存在しています。

 

 

誰もが、その可能性を追いたいと願うのは、無謀なことなのでしょうか。

誰もが、自分の才能に気付き、その時間を他者と共有することは、

無理なことなのでしょうか。

 

 

2016年を生きる私たちにとって、この「信号機」は、

ただ、事故を防ぐためのものではなく、

それは、無意識の内に、私たちの「思考」も「行動」も、その内で

整備され、今を生きていることになっているのです。

 

 

例えば、事故や事件が起き、「信号機」のかわりに「法律」が書きかえられたり、

新たに作られたりすることでも、「整備」されるのです。

それも、同じことです。

 

 

このような「整備」は、

私たちの「身体感覚」や「思考力」を奪い、

何かに従って、生きる人間を育てるような社会に繋がっていくのです。

 

私たちは、本来自分で思考し、人とより豊かに生きていくことの

できる生物ですから、このような「整備」とは無縁の社会に在る方が

望ましいのです。

 

 

だからこそ、子どもたちへ、現代社会で生きるための、

「信号機」の色の決まりを理解させると共に、

「○○だからこうする」と「判断力」を鍛えさせるだけでなく、

自らの「身体感覚」と「思考力」で、この社会を生きぬいていくことを

切実と後世へと伝えていかなければならないのです。

 

 

 

道徳

人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。