人工知能に負けない教育改革を!中教審の論点整理。ロボットを育てようとしてきた次のステージは、本当に「アクティブ・ラーニング」なのか。「ロボットだと気付かない人間」になる必要もなく、育てる必要もないのです。

 

児童が主体的に問題を解決していく「アクティブ・ラーニング」

を導入していくこと。

 

 

子供が人工知能に仕事を奪われないための教育改革 --- 鈴木 寛 (アゴラ) - Yahoo!ニュース

2016.1.13

 

 

アクティブ・ラーニングが、

今後の教育主流になることは、言うまでもありませんが、

私は、人間が学ぶということは、もともとアクティブなものであり、

自分で見て、聞いて、考えて、そして経験する以上により

良い方法はないと思っています。

 

 

このような言葉を先行して使うことにより、

新しいものが導入されるように思いますが、

当たり前のことであるのに関わらず、「そうだよね、大切だよね。」

と新しく意識することにより、前に進んでいるような錯覚をしてしまいます。

 

 

これは以前、ユネスコスクールについての記事でも述べましたが、

問題を解決する「問題」そのものに「問題」があり、

教育において、そのことにアプローチしてもしかたがないのです。

 

 

本当に、社会が多様化し、国際化と呼ばれる

状況に向かっているからなのでしょうか。

 

 

 

「多様化」とは、あらゆる「価値」をもつ人々が生きている状況を

言うと思いますが、そのような方向へ社会は向かっているのでしょうか。

 

 

 

「これからの社会を予測して、人材を育てなければならない。」

と言いますが、何に「価値」をおいて、話し合っているのでしょうか。

 

 

 

教育の本来の在り方は、「社会に適応する人材」を育てることではなく、

生まれてきた人が、人格を磨き、育て、自分の才能や能力を発揮していく

ことだと考えます。

 

 

「子ども」は、真っさらな白紙ではなく、

すでに「もっている」存在なのです。

 

 

しかし、自分の力ではその能力を開花させることができませんから、

他者との関わりのなかで、

自分の良さに気付き、それを伸ばしていくのです。

 

 

それは「人材を育てる」という言葉ではなく、

 

「人が人を育てる」という言葉です。

 

社会ありきではなく、人ありきです。

 

 

工業化社会の時代は、「丸暗記」に強い人材、つまり、

朝決まった時間に工場に出勤し、確立された作業マニュアルと

オートメーションの下、素早く正確に作業を行うことができる

人材が、国家・企業の生産力に直結していました。

日本が戦後、世界随一の工業立国になれた背景に教育の後押しが

あったのは言うまでもありません。

 

 

例えば、過去に生きた人が「このような社会にしたいな」と思ったとします。

そしたら、そのような社会になるような人を育てればよい。

 

 

それが「人材を育てる」という言葉の意味の背景なのです。

 

 

 

 

 

ここで、よく考えてみましょう。

 

そのようなことはできますでしょうか。

 

未来の事を予測したり、断定したりすることはできませんね。

 

人が、生まれてくることは、特別なことではなく、極自然なことです。

 

だったら、その人が「自分らしく生きられる社会」は、

とても自然な社会構築のような気がしてなりません。

 

 

だからこそ、目の前の我が子が「どのような社会を生きるのか」

という価値に子どもを押し込めるのではなく、

 

その子が、生き生きと生きられる社会は、その社会にとっても、

実りあるものとなるのです。

 

 

1人1人、違うのですから、その差異が、互いのよさを引き立て合うことで、

その人だけの価値となり、社会や地球に貢献していくことになるのです。

 

 

そこで、行われる教育活動が

「暗記型」であれ「アクティブ・ラーニング」であれ、

あまり意味がないことです。

 

 

なぜなら、そもそも、

誰かが作りたい社会へ適応していく人間を育てようとしているので、

「何をするか」「どのようにするか」ではなく、

「教育」の根本的な意味から問い直さなければ、意味がないのです。

 

 

ここ数年で、大学入試制度や、大学生の就職活動期間についての

問題が挙げられていますが、このような「教育施設に入らなければ学べない」

と言われていること自体もおかしなことです。

 

 

人は、どこでも学ぶことはでき、「資格」が全てではありません。

「資格」よりも「人格」を磨く方が、自己成長に繋がり、

人とのよき出会いにも繋がります。

 

 

本来の教育では、この記事にあるように

「丸暗記」をして「試験」に対応できる人を育てるのではなく、

 

 

自分の感性で、見て、聞いて、触って、感じることのできる人。

 

 

自分の思考で、物事を判断し、選択し、考えることのできる人。

 

を育てていくべきだと思います。

 

 

 

しかし、ここまでなら、記事にある「バカロレア」教育と同じことです。

相手を論破し、思考力が育つことで、「自分の考えを相手に伝える」ことはできます。

 

これは、とても重要な力です。

 

 

多面的・総合的に評価・判定する入学者選抜への転換などを目指したアドミッション・ポリシー(AP、入学者選抜方針)の改革

 

 

これで、入試もばっちりでしょうか。

 

しかし、まだ、これだけでは、平面的であり、机上の学習で完了することになります。

 

 

 

人として生きる「人格」が育っていなければ、

社会を生き抜いていくことはできません。

その「人格」とは、自分で努力しなければ育ちません。

 

 

どれだけ、他者が言っても、そればかりは、自分で気付き育てようとしなければ伸びてはいきません。

 

 

そこで、私は、そこに気付き、伸ばしている人とそうでない人は

どのように違うのかをこれまでお会いした多くの方を観察して、

気付いたことがあります。

 

 

それは「自己を律することのできる人」と

「自己を懐疑的にみていくことのできる人」です。

 

 

そして目の前の状況を、観察し、

相手と自分ありきで「よりよい社会」へと思考を上昇させていくことのできる人です。

 

 

 

なぜ、今、このような力が必要なのかというと、

私たちの住むこの地球・社会は、当たり前ですが、

これまで誰かが築いてきたものであり、

まず、その社会の仕組みがどのようになっているのかを

自分で確かめる力が必要なのです。

 

 

それは、与えられた情報や、現状に「疑問をもつ力」です。

疑問をもち、まず、自分で疑い、考えてみることから始まります。

 

 

記事内の記憶力と反復が得意なのは、勿論、ロボットかもしれませんが、

物事を一面しか見ずに判断したり、他力本願で、生きていたりすることは、

「ロボットに近い人間」なのです。

 

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戦後、このような教育を施され、

「ロボットに近い人間」が人材として育ってきていることは、

これまでの義務教育課程の成果の一つでしょう。

 

 

よく考えてみると、

自分のことを「ロボットに近い人間とは気付かない人間」もなかには、

おられるのではないでしょうか。

 

 

そのくらい、幼いころからの教育とは、洗脳であり、

私たちの思考の癖になっていることがあります。

 

 

だからこそ、自己を律し、懐疑的に見ていく力が必要なのです。

 

 

もし、そこから歩み直し、本来の学びを始めたいのならば、

常識を疑うなかで、よりよい方法へ行動にうつしていく。

 

丸暗記でもなければ、

正解や不正解という問題でもないのです。

 

誰かの考えや思想に憧れている場合でもないのです。

 

 

 

自ら、律し、表現し、よりよい社会を創造するための「知恵」を模索し、

「行動」していくことでしか、人は学ぶことはできません。

 

 

 

人が、人である以上、「学ぶことのできる」存在として

この世に生を受けたことは、とても喜ばしいことです。

 

だからこそ、現代教育の一定の枠内には、

本来私たちの感性も思考も縛られないはずであり、

簡単に、超えてしまうものなのです。

 

 

自分の可能性を信じて進むことは、

どんな遊びや楽しみよりも、愉しいことであり、

人生の意味を成すものです。