過去も未来もなく「今」を生きる動物から学ぶこと。生物として、純粋に「生を営む」ということの「行為」は美しく、理に適っています。

 

動物の世界では、今を「生きる」ことに必死である。

 

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その姿は、過去も、未来もなく「今」を十分に生きる姿であり、

とても美しいと感じるときがあります。

 

 

ふと、2016年現在の私たちの社会を見渡して、

時間やお金など様々な制約のなかで生きている私たちは、

いつから「生きること」に素直に、純粋に向き合えずに、

鈍感になってしまったのでしょうか。

 

 

気難しい言葉に

 

空虚な価値

 

生物として生きることとはかけ離れた欲

 

 

 

純粋に「生を営む」という点で、明日の命すらも分からない状況で生きる生物から

学ぶべきことが多くありそうです。

 

 

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少しだけ、想像してみましょう。

 

 

 

 

土の中、海の中、緑の中に、

多様な生命体が「今」この瞬間も、

命の鼓動を鳴らし、生きています。

 

 

 

 

 

海の中では、今、どれだけの命が生まれ、

死んでいるのでしょうか。

 

 

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アマゾンのジャングルの中では、

今、どのくらいの命が、生まれ、死んでいるのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、今、私たちは

 

「何をしようか。」

「誰といようか。」

「何を食べようか。」

「何を着ようか。」

「去年は、明日は?」

「1年後、5年後はこうなる!」

 

と考えているでしょう。

 

このように、未来へ思いを馳せることができるのも、人間故の性質であります。

 

 

 

本来、この地球の多様な生命体を考えると、

生まれることも、死ぬことも、とても自然なことのように思えてなりません。

 

 

 

私たちの「より長く生きたい」

と願うのは、当たり前の欲ですが、地球の生命体からすれば、

死んでいくことも、私たちの体の細胞が日々生まれ変わるように、

また自然なことなのです。

 

 

 

そして、人は、自分の「意志」でいつでも

「変わることができる」ポテンシャルをもつ生き物であることを

認識しましょう。

 

 

 

 

教育において、人を変えることはできません。

なぜなら、人は、自分で気付き、自分で思考し、自分で未来を描くことでしか

生きられないからです。

 

 

 

 

 

だから、目の前の子どもが「今」そのような状況であり、

「こうすべきだから」このような手段や方法をとるというのは、

理に適った方法ではないことに気付きます。

 

 

 

 

私たちは、そこに執着するのではなく、

子どもの周囲の「環境」や「自分自身の在り方」を見つめ、

そこに集中して、生きることでしか、「教育」は意味を成しません。

 

 

 

 

 

共に生きる。

 

 

 

 

共生・共栄する営みこそが、教育そのものなのです。

 

 

 

 

そして、いつでも、多様な生物たちと

同じように、私たちは呼吸して生きていることを忘れてはなりません。