電車での親子の会話「ママ、あなたと遊んでいると疲れるの。」 人を信頼すること、人と関わることによって育まれる「愛着形成」は、「今」その瞬間にしかできません。その子の人生に大きく影響します。
電車にのっていると、
このような親子の会話が聞こえてきました。
母 「ねぇ、ママはあなたと遊んでいると疲れるのよ。」
子 「知っているよ。」
立っている私が振り向くと、座席に1組の親子が座っていました。
子どもは窓の外の景色を見ながら、母親は、特に不機嫌そうな顔を見せておらず、
二人の会話はその後、何もなかったかのように続いていました。
この親子の状況は、色々と予想されますし、原因は複数あると思いますが、
このようなやり取りが、現代の私たちの生きる日常に溶け込んでいることに、
危機を感じずにはいられません。
言葉だけではなく、2015年現在を生きている幼児・児童には、
そのような大人の態度が、しっかりと伝わっていることは事実です。
一見、分からないように見えますが、観察と対話をすれば、
そのようにSOSを求めている子どもたちは多くいます。
親が、子どもをたっぷりと愛情をもって育てる時間は、
この国のどこにいけばあるのでしょうか。
もし、この母親の近くに他の大人がいれば、
子どもに直接このような言葉は向かなかったかもしれないし、
母も働かなければいけない状況で、身体・精神的にも疲労していた状況かもしれない。
子どもは、「知っているよ」という言葉をよく言います。
嬉しい時、相手に分かってほしい時、褒められたい時に使う言葉として
認識していましたが、この子が、どのような思いでこの言葉を言ったのかを
想像してしまいます。
きっと、大好きなお母さんが大変で、遊んでいてもどこか
「今、ここにいない。」という感覚があり、
忙しそうにしている姿がいつも目に焼き付いているのでしょう。
母にそのようなことを言われ、黙っていても良いはずなのですが、
彼はきちんと返答をしています。
このような状況における家族は、私が今日出会った家族だけではないと思っています。
このような状況における「家族」が増えていくのではないかと懸念しています。
では、もう少し、深く考えていきましょう。
この親子の会話から、私たちが学ぶべきことは、「人との関わり」です。
如何に、「人との関わり」が希薄になってきているかを
自身の周りを見渡して見て感じるとよいかもしれません。
あのような何気ない日常の会話は、
「親子の関わり」=「人との関わり」を断絶していく恐れがあります。
幼児期に人と関わることが、如何に重要かは、何度も述べてきています。
例えば「愛着形成」ということを1つとってみても、
親との日常における、肌の触れ合い、言語・視線・表情などによる
コミュニケーションが一番大切なのです。
愛着とは
イギリスの児童精神分析学者ボウルビーJohn Mostyn Bowlby(1907―1990)の用語。基本的には、人間を含めたあらゆる動物の個体が他の特定の個体との接近を求め、またその接近を維持しようとする行動をさす。このような行動の起源は、鳥類や哺乳(ほにゅう)類の新生児の母親へのしがみつき、後追い、接近などにみられる母子間の愛情的きずなに求められ、さらに長い進化の過程で、親が子を強力な略奪動物から保護する行動から形成された本能的行動とみなされている。人間の場合、生後6か月くらいで特定の人物(母親)への愛着、見知らぬものへの恐れが出現し、2~3歳ごろまで続く。
このように幼児期にたっぷりと愛着を育み「基本的信頼」を体得することは、
児童期・青年期にとって、また大人になってからの対人関係に影響を及ぼします。
そのくらい、人にとっては大事な時期なのです。
親子の愛着形成は、日々の生活のなか「日常生活」のなかで育まれます。
もちろん、その関わりの質を高めていく事は、言うまではありませんが、
量・数が重要です。
特に、母乳を与える母親などの特定の人物に「愛着」を覚えることを通して、
子どもは「人を信頼すること」を学んでいきます。
行動→相手の反応→観察→欲求が満たされる→学習→行動
と繋がりますが、
年齢によって、「何を求めるか」は違ってきます。
子どもの発達の時期・時間に沿った関わりをしていくことが大切です。
それは、1人1人異なります。
まず、違うということを知らなければなりません。
母子手帳や、書籍に書かれているように「人間発達」は、
簡単に線引きできたり、言語化できたりするようなもの
ではありません。
だから、今、「関わる」ことでしか、応えは見いだせないのです。
それは「今」しか、出来ないことですが、
しかし、それ以上に目の前の「忙しさ」に追われてしまうのが現状です。
この親子の会話は、子どもが生きづらい社会になってきていることを意味します。
子どもだけではなく、私たちが生きづらくなってきているということも
同時に意味していることにお気づきでしょうか。
私たちは、いつも自分のことだけではなく、
周囲を見渡し全体を見て、物事を知り、理解に努めなければなりません。
なぜなら、自分も社会も繋がっているからです。
あなた自身のことを、考えるのであれば、
社会を見渡し「自分で考える」ということを始めましょう。
そうすることでしか、どちらにとってもより豊かな未来をつくることに
繋がらないということを、心に留めておいてください。