子どもは、誰もが親であり教育者であると自覚している社会において、良き大人に出会える機会が増し、人格を育み、成長することができる。

子どもを教育していく上で、「こうでなければならない。」

という一番良い手法ややり方はありません。

 

どの時代を生きる、親・教育者も、これらを模索し続けてきました。

 

 

そして、祖先から続く「子どもを育てる」という

大きな共同作業を「実験的」に行い、生命体を存続させてきたのです。

 

 

誰もが親であり教育者であると自覚している社会は、

子どもが良き大人に出会える

機会と場所を増やし、その可能性を広げます。

 

 

これらの出会いは、「人格」を育みます。

 

 

子どもを育てるのは、生みの親・学校の先生だけではありません。

 

社会をつくる、私たち1人1人の大人が「教育者」であるという自覚をもち、

仕事をして「価値」を提供している状態が必要です。

 

その眼差し、その思いやりは、どの商品や制度よりも「価値」があると思います。

 

 

親になるということは、「人を育てる」こと以外に、

「自分を育てる」ということにも繋がっているのです。

こればかりは自身が経験してみなければ分かりません。

 

 

そして、この共同作業は、人が人らしく生きるために

なくてはならない「時間」と「場所」です。

 

 

社会がどれだけ、子どもが生みにくいと言われている制度が増えようが、

増えまいが私たちは、子孫を残し、後世へ育て、命を繋ぐことは、

私たちが、「共同」で行わなければならないことなのです。

 

それは、私たちが何に「価値」を置くかで変わります。

 

つまり、一般市民や消費者と呼ばれる私たちが、

良い「価値」を生み出すことも出来るし、

悪いものを「価値」と認識させられ、消化し消費していることも現実です。

 

 

私たちが多角的にものを見る視点をもち「リテラシー」を高めることで、

自分たちでよりよい社会にしていくこともできます。

 

 

 

例えば、

隣に住む、シングルマザーが子どもを2人育てていれば、

それをあなたはどのような眼差しで見ますか。

 

16歳の女性が、子どもを出産したら、あなたはどのように思いますか。

 

現在の概念で「障害」と診断されている子どもを

育てている女性をあなたは、どのようにサポートしますか。

 

 

応えはあなたのなかにあるものですが、

それは、後から「常識」として認識しているものなのか、

或いは、

生物として生きているなかで、大切にすべき本来の「価値」があるものなのかを

考えることは、現代を生きる大人としての責任です。

 

 

子どもは次世代を担う、人材であり、私たち1人1人の「生き方」に触れて

その人格を育むのですから、その自覚をもって、

全ての、目の前にいる子どもに関わっていただきたい。

 

そして、その関わりを始めれば、自分自身が豊かに生きていること

にも気付き始めるのです。

 

 

それは、あなた自身を豊かにしてくれていると気づき始めるでしょう。

 

 

子どもは、抑圧され、自由のない場所では育つことはできません。

多様な人と話し、抱かれ、関わることで、欲求や好奇心を満たします。

 

そこに「誰が関わるのか」ということは、

現代において非常に重要なことなのです。

 

 

それは、私たちの「今」の行動と考え方が礎になるのです。