「みんな思考」水族館で泳ぐイワシの大群と私たちの思考の癖と習性。Schoolの意味「群れ」と「一般常識」について考える。

私たちの日々の生活で、インターネットやテレビからの情報と、

現実が違っていることに違和感を覚えたことはないでしょうか。

 

「とても良いと言われて使ったけれど、良くなかった。」

「混んでいると思っていたけれど、言ってみると案外、空いていた。」

「○○と騒がれているけれど、実際、そんなこともない。」

「悪い噂が流れていたけれど、とてもよい人だった。」

 

 

よくある「常識」と、自分自身の体験との狭間で、

私たちは生活していて、時に、どちらを生きているのかさえ分からなくなる。

 

 

 

よくある子どもとの会話を思い出してみましょう。

 

「ねぇねぇ、パパ、これ買って。」

「もう、似たやつがあるじゃないか。買いません。」

「だって、みんな持ってるもん!」

 

 

ここで、私たちは、二つの選択に迫られるはずです。

 

一つ目。

(1)「みんなが持っているのか。うちの子だけもっていなかったら、仲間はずれにされて、いじめられたらこまる。」

 

二つ目。

(2)「みんなって、誰なの?言ってみなさい。○○ちゃんと○○くんと○○くんの三人ね。どうしてこれが必要なのかもう一度問う。」

 

 

どちらの、子どもが「幸せ」でしょうか。

前者の子は、皆が持っているものを持つことは大切なことであることを学びます。

後者の子は、皆が持っていても、自身にとって必要なのか問いなおします。

それでも欲しければ、交渉したり、工夫したりすることを学びます。

ダメと全否定されずに、その理由と後に自分で持つことができるであろうと

考える余地をもたせることで、大衆とは別に、自分で思考することを学びます。

 

このような例から考えても、

人は、「みんなが」という大衆がどちらを向いているのかを

基準に行動してしまう癖・習性があるようです。

 

 

 

テレビやネット上で、話題に挙がっていること=みんながやっていること

と思っていませんか。

 

 

この大衆思考は、「群れる」ことを意味します。

 

そうやって、自分の言動を決める時がほとんどです。

人生で「自分で決めたと思っていて、実は何一つ、自分で決めていなかった。」と

後で気がつき、反省し、後悔する場合も時としてあることを

頭の片隅に入れておきたいです。

 

 

この大衆が向く方向の焦点が絞られたときに、

その物や人、情報の「価値」が高められ、

ある一時期の時間は「価値」として存在し続ける可能性が高くなります。

 

 

そして、この「価値」は「一般常識」になります。

 

この「一般常識」が理解できない=変な人=出世不可能=給料が下がる=人生不安定

 

この循環を防ぐために

 

「一般常識」を理解できる=良い子=出世可能性=給料が上がる=人生安定

 という循環を作り出すための場所が「学校」であると言っても過言ではありません。

 

 

そもそも、Schoolという英語の意味の一つに「群れ」という意味が含まれています。

 

 

つまり、学校が、常識を教える場所であり、群れを作りだす場なのです。

 

 

では、この「常識」とは誰が作るのですか。

私たちですか?

それは、何の、誰のために在るのですか。

考えてみましょう。

 

 

よく、「一昔前までは、○○が常識だったのに、

今ではすっかりなくなって○○に変わっているわね。」

という会話をすることはありませんか。

 

 

私たちが、生きている間で、あとどのくらいこの「常識」

と呼ばれているものが変わっていくのでしょうか。

 

 

みんなが「働くから」

みんなが「食べるから」

みんなが「好きだから」

みんなが「休むから」

みんなが「買うから」

みんなが「渡すから」

 

と、そのような大衆の「みんな思考」を使って、

バレンタインやクリスマスという行事で、儲ける企業もあります。

あっ、そうだ!

お金がなければ、生きては行けないし、

それをたくさん所持することが、幸せなんだった!

 

これも、私たちの現在の「常識」であり、いつか変わるかもしれません。

 

 

ある「ルール」や「法則」を作りだすと、

面白いくらい大衆が動き出す。

 

例えば、こんな場面。

 

水族館に行ったときに、大きな水槽に、

イワシが同じ方向を向いてぐるぐると泳いでいるのを見たことがあるでしょうか。

同じスピードで、同じ方向で、乱すことなく、泳ぎつづけている。

口を開けて泳ぐことで、プランクトンが口の中へ自然に入ってくるそうです。

 

 

泳ぐ=生きること

 

 

同じ個体が、同じ速さで、同じ方向へ動き続ける状態を作り出すことは、

同時に、「群れ」を作り出すことになります。

 

この光景。

 

先ほどの、人の「みんな思考」の癖と習性によく、似ています。

「魚はなぜ群れで泳ぐのか」の本の中に、

群れで行動する理由が挙げてあります。

 

 

1.敵から身を守るため。

 

 

2.群れの中の個々の魚の視覚、嗅覚を使うことで、餌や危険を察知できる可能性が上がる。

 

 

3.群れで泳ぐことにより、後ろの魚は泳ぐためのエネルギーを節約できるとする。

 

 

4.一匹でいると寂しくてストレスが溜まり、群れでいる時の方が安定する。

 

 

 

これは、私たちに全て当てはまるかどうかは別ですが、

このようにイワシの大群の生物としての生き方を見ても、

「群れ」として生きる術「常識」を身に付けた私たちの行動が

「みんな思考」になるのも不思議ではないような気がしてきます。

 

 

この見えない、無意識の内に判断基準となる

「常識」ほど、恐ろしく、私たちを縛っているものはないのはないでしょうか。

 

 

 

「群れ」を見て喜ぶのは、水族館の飼育員です。

もし、捕まえて、食べることになった場合、

その習性を利用して簡単に捕まえることができます。

 

もし、自由に動きまわっていたら、捕まえるのに時間が掛かるし、

大がかりな作戦を立てることになるかもしれません。

 

それでも、その水槽の中に入っている限り、いつかは、

必要な時に必要な数は必ず確保できる。

 

地球の大きな海原の中では、イワシの大群を見つけ、

それを捕まえるのに、どれだけの時間を要することでしょう。

 

 

もし、私たちが水槽のなかのイワシだとしたら、

大海原を泳いだことがないから、そこは、

水槽なのか、大海なのかさえ

区別がつかずに、生きていることになります。

 

 

「可能性」という言葉で、終わらせて、

夢を見て生きている。

 

そうしている今も、目の前の水槽の中で優雅に泳ぐ魚や動物を見て、

笑ったり、喜んだりしている私たち。

 

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本当に、私たちは、自由で、豊かで、生物としての最高のパフォーマンスを

発揮しているのでしょうか。

才能や知恵を生かしているのでしょうか。

後世の豊かな社会へ繋がる「生き方」ができているのでしょうか。