学ぶということ。生きるということ。

 

教育者として、生きるならば、誰を師と仰ぐのかということは、

この世界では、重要なことのようです。

 

ここでの教育者とは、すべての大人という意味を

含みます。

 

なぜなら、社会に生きる子どもたちを教育するのは、

親・教師だけではなく、私たち、1人1人だからです。

 

 

現在の我々の祖先が築いたシステム上で、

出世し、立場もステージも上がっていく故です。

 

 

私は、現在を振り返っただけでも、

今を生きる数多くの「師」が、私を導き、支え、伸ばしてくださったことは、

変わりのない事実ですし、これ以上の幸せと感謝は言葉が見つからないほど、

溢れてきます。

 

 

しかし、

 

「誰を師と仰ぐのか」

 

 

と問われたら、私は、「自分」としか応えようがないのです。

 

 

 

この言葉の背景には、自身はまだ、未熟ものである故、

鍛えねばならぬという自己を鼓舞する気持ちと、

 

自分がこの地球に生まれて、何ができるのか

という純粋な好奇心と可能性への期待からきています。

 

 

人は、総てのものから、学ぶことができるのです。

 

同じ世界に生きていても、自分自身の在り方で、

見える世界は変わってきます。

 

 

 

 

 

 

では、

 

この世に「平等」とは、あるのでしょうか。

 

 

時間も、人によって使い方が違います。

現在の義務教育のように、全員「同じ」ように感ずることができ、

同じように思考していく必要性はありません。

 

「私」(わたくし)ではなく、「公」(おおやけ)の立場から申し上げますと、

「平等」とは、異なる才、素質、得意なことに合わせて、

違った教育を施すことこそが「平等」なのです。

 

 

それを、批判的に見るのならば、それは、

その方の傲慢さからくるものであります。

 

 

教育者としては、この世に、志ある己の才能を十分に発揮し、

自分の時間を生き抜くことのできる人に引き継いで、

私はこの世を去らなくてはなりません。

 

 

自己を成長させ、伸ばすことのできる人は、

己でしかありません。

 

そこにきちんと向き合い、生きることです。

 

 

そして、未来、この記事を読む人に、どうか伝えておきたい。

自分の感受性は、守らねばなりません。

力を発揮し、才を伸ばすためには、そのくらいの思慮深さが必要なのです。

 

 

そして、どの時代を生きようと、

自分自身で世界を探求し、好奇心を失わず、

思いやりをもって、生きるものと関わることです。

 

今、目の前の「出会い」に必然を感じて、

自由な心で、正直に、素直に生きましょう。

 

 

それが、私の、あなたの「志」に変わるのです。