相手にギフトを選んでいる時のあの気持ちが、教育のはじまり。「ギフトフルマインド」GIFT:贈り物・恩恵・才能。教育的価値が「専有」から「共有」へ移行している今。

f:id:familylearning-full:20151216205121j:plain

 

 

子どもは、美しい形の木の実を見つけては、

「これ、あげるよ!」

 

折り紙で新しいものを作っては、

「はい、どうぞ。」

と何でもシェアしてくれます。

 

どれだけ大事なものも、

手渡したくない気持ちも半分見え隠れしつつ、

でも、「どうぞ」と手渡せるのです。

 

 

それは、生物として、人に何かを与えることは、

自分の学びになり、嬉しい気持ちになることを

分かっているからだと思います。

 

誰しもが目の前にいる人の笑顔を見たいと願うのは、

人として、当たり前の感覚です。

 

GIFTには、

1.贈り物

という意味の他に、

2.恩恵

3.才能

という意味が含まれています。

 

才能も、恩恵も、それが他者に届いて初めて響くのです。

内に秘めているだけでは、もったいない。

もちろん、それを引き出すことが、教育の役割でもあることは、

以前に述べています。

 

 

大好きな人に、何かを贈りたくなる気持ち。

大切な人、お世話になっている人に、何かを手渡したくなる気持ち。

この気持ちのことを「ギフトフルマインド」と

名付けましょう。

 

 

では、お店に行って、

ギフトを選んでいるときのことを思い出してみてください。

 

どれがいいかな?何が好きかな?これ、似合うかな?色は?かたちは?

と、ワクワクしながら選んでいると思います。

 

 

 

「相手の喜ぶ顔を思い浮かべて、思考し、選択し、決断する」

 

 いう行為は人が人を指導する上でとても大切なことです。

 

なぜなら、同じ情報や物であっても、伝え手によって、

「届き方」が変わるからです。(「受け手」によっても勿論、変わります。)

 

つまり、その目の前の子どもにとって、今必要なことを想像して

提供する行為そのものです。

 

「相手が情報を受け取った後の姿を、想像してはじめて、相手に届く」

教材を研究するということは、まさにこの感覚に近いです。

 

教育で言えば、このギフトにあたるものが、

「知恵」であったり、「問い」であったりするので、

「物質」だけが、ギフトになるとは限りません。

 

そして、「受け手」にも、その情報を認識するだけの

リテラシーと想像力が必要であり、

相互のやり取りは、共生に繋がり、互いの成長を支えます。

 

現在の義務教育では、

これは誰のものか。自分のもの。人のもの。

という風に「所有」をはっきりとさせ、

「専有」するために管理することの大切さを教えます。

勿論、それも大切ですが、人に「共有」する喜びも体得させたいものです。

 

 

なぜなら、人は死ぬときに、富も物も何もかも「専有」することは不可能だからです。

そのように考えると全てのものは、「共有」することができます。

 

これは、人が個として生まれ、育つ上で大切な感覚です。

個が繋がり、共有することは、同時に自分を成長させ、

大切にする「センス」へと変わります。

 

先日、ある子どもに関わる施設を運営されておられる経営者の方に話を伺いました。

その話の中で、子どもの「お金」に対する感覚の国際比較をされていました。

メキシコの子どもたちは、働いて得たお金は、すぐに使って、また、働くそうです。

一方で、日本の子は、働いたお金を「貯蓄」する傾向にあるのだそうです。

 

お金というもの1つとっても、使うものだという発想と、

貯蓄するものだという子どもの「金銭感覚」から「所有」したものを

どのようにするのかを垣間見ることができます。

その後の社会の営みも随分、違ったものになります。

 

 

最後に、教育のはじまりは、この「ギフトフルマインド」から

来ているような気がしてなりません。

相手に知らせたい!

伝えたい!

届けたい!

そんな思いがなければ、

本来の自分の言葉も、考えも、出てこないのです。

 

親・教育者は、教科書や育児本で、正解と言われている「社会通念」

をギフトとして届けても、それは、ただの「物」であり「贈り物」にはなりません。

 

自分で、再構成した上で、

自分事、自分のものとして、相手を思い浮かべて、届ける行為そのものが、

教育的な時間であり、互いの成長にとって貴重な時間になることは、

間違いありません。

 

教育的価値が「専有」から「共有」へ拡がりつつある今、

何を人類の智恵として残していくかを自身の想像力と気付きで

描いていくことが重要なことです。