「将来の夢」から考えた2つのこと。「教育」で私たちが出来ること。―あなたの幼い頃の夢はなんですか-
あなたの幼い頃の夢はなんですか。
「いや、忘れたね!」
「思い出すことすら時間の無駄だ。」と思う人もいるかもしれません。
私は、最近「子どもの将来の夢」について考える機会があり、
このテーマがいつも頭の片隅にあったので、今、記したいと思います。
この「夢」について、私は、2つのことを考えています。
まず、子どもたちは「夢」を聞かれて時に、お花屋さん、宇宙飛行士、建築家、漫画家などの職業で表すことが大半です。
子どもは、「何になるか」を考えますね。
大人も、それを、よく誕生日や、行事ごとに書かせたりします。
それは、身近にロールモデルがいたり、なんらかの情報を得たりして、
その職業について認識していなければ出てきません。
そのように、未来の自分と、今の自分を照らし合わせて考えてみる時間は、
幼児・児童にとっても大切なことです。
しかし、どうでしょうか。
私=その職業になる人
と職業ありきで、私という将来像を描いていくことにも繋がります。
ここで、大切なことは、多様な選択肢があることを知らせるということ。
次に、その職業についたら、どんな気持ちになるのか。
どんな話をしているかなどと実際になったと「見立て」て想像を広げてみます。
その職業をしている自分は、どんな人なのかという「自身の在り方」
にまで発展させてみると親・教育者にとっては、
その子の才能や素質を見つけるヒントになるかもしれません。
あなたが、それを「問う」ことで、子どもは、「考える」という行為に繋がります。
少し、「夢」から話を飛躍させて考えてみると、
先ほど、「ロールモデル」と述べましたが、身近に「憧れる大人」がいることは、
子どもたちにとって、何よりも重要なことです。
憧れるというのは「こんな人になりたいな」と心から想えることです。
それも、「多様な大人」がいることも子どもの成長にとっては、
欠かすことのできないことです。
子どもは、時に憧れにして、時に反面教師として「大人」をじっと見ていますから。
先日、他国の原住民の人たちとプロジェクトをしている友人と「家族」について話す機会がありました。
彼女は、「ファミリーはいろいろな形がある」と言っていました。
その国では、両親が出稼ぎに行ったり、仕事をしたりしているので、村中の人が「生まれてくる子ども」を育てるそうです。
隣の人も、我が子のように育てているそうです。
実は、日本も、昔はそのような風景は当たりまえでした。
今では「核家族」「シングルマザー(ファザー)世帯」が多くなっています。
「我が子だけは」「隣の家のあの子は」「○○ちゃんは、こうなのに」と
おっしゃる方が増えてきているように感じます。
それよりも、「生まれてきた子どもをみんなで育てる」という文化は、
よい人間の知恵だと考えます。
実際に、そのように育てることは、難しい世の中だったとしても、
親・教育者の「価値観」が、「地球に生まれてきた子どもたちを育てるのは役割だ」と
心のどこかで思っているだけでも、そこから発せられる言葉や、行動は、変わってくるはずです。
私は、心からそう思っていますし、そのように考える親・教育者と話をしていた方が、
確実に、豊かな子育てができると思います。お互いさまであり、お蔭さまです。
私も、全力でやりますが、やはり助けられている。
自分では、ちょっとした行動だったけれど、相手にしてみたら
ものすごく助かったということに繋がる。
その「ちょっとした支え」が子育てには大切です。子どもを取り巻く環境に「寛容さ」をもたらします。
それに、子どもの「多様なロールモデル」をもつことにも繋がります。
もう一つ「夢」について考えることがあります。
子どもの「夢」は、社会的通念、社会背景が、そのまま繁栄されるということです。
世界の児童の絵を交流するというプロジェクトに関わった時のことです。
国によって、「夢」が違うのです。
キラキラお姫様を描く子、牧師さん、戦車に乗って戦う人、ビル(夢じゃないよね)
馬にのっている自分、お金持ちの自分、お母さんと。様々なのです。
私は、はじめ、戦車に乗って戦う人を描いている子どもを見て、「なんてこと!」
と思いました。
その子にとっては、それが一番で、それを否定的にみるのは、私の「価値」に当てはめて見ていることに気付き恥ずかしくなったのを記憶しています。
その子の社会的背景がそのようになっているという事実であり、そこに私は疑問を感じたのです。
その子にとっては、「夢」そのものを描いている状態は、「宇宙飛行士」「お花屋さん」を描いていること、変わりはなく「健全」な状態であると言えます。
子どもは、社会を映し出しますから、その子から見えている世界が、
戦車で溢れているということです。
そして、今現在思うことは、
どこの国に生まれたら「幸せか」という事は、ないと思います。
それは、どこで教育を受けているか。
どこの会社に勤めるかにも通じます。
現在、私は日本に住んでいますが、日本にいて、日本の子は恵まれているとよく耳にしますが、そのようなことは決してありません。
「恵まれているか」
「恵まれていないか」
かは、1つの価値に基づいて見ているだけであり、
その子が、生物として与えられている「時間」のなかで
「自分は幸せだ」「こんな風に行きたい」と思えている状態こそが、
とても「恵まれている」ということなのです。
それは、自分で感じることでしか「獲得」できない「感覚」です。
いくら親であれ、他者なので、認識することはできません。
どのような状況であれ、それを学びにして「豊かに」いきるセンスがあれば、
きっと、自分から創りだしていけるのです。
子どもたちを見ていると、それくらいのエネルギーに満ち満ちていますから、
それは事実です。
しかし、それは、生きていく上で、忘れてしまうものです。
忘れることも成長には欠かせません。
そして、幼児期・児童期・青年期を経て、社会を創りだす時期になった時に、
それらの教育課程において、「体得」したものが「醸成」します。
だからこそ、子どもたちに「今」出来ることは、
まず、彼らが「今日」したいこと、「今」やりたいことを、十分に発揮させて、
その作り出す時間の楽しさを味わわせることです。
疑問や発見を歓迎することです。
そして、あらゆる「五感」を使う「身体感覚」を開いてあげることです。
最後に、自分や他者との対話の時間のなかで、「思考」すること「表現」することを行ったり、来たりして、自分で感じたり、考えたりする時間を確保することです。
私たちにできることは、
人を、社会通念、常識に当てはめることでも、
人を、自分自身の生きてきた過去に当てはめることでもありません。
そして、人は、あなたの力で変えることはできません。
もちろん、彼らは未熟さ故に、不器用であり、やってはいけないこともあります。
そこは、威厳をもって接するべきだと思っています。
あなた自身がどうあるかを問う事。
そして、そのための環境を創っていく事。
最後に、もう一度。
あなたの幼い頃の夢は何ですか。
もし、消防士だとしたら、あなたがそこで消防士を選んだ理由があるのです。
実際に、あなたの今の考え方や、大切にしていること、その職業を経て、
あなたが「見たかった世界」が描けるかもしれません。
それほど、幼い頃の記憶とは、忘れてしまいがちだけれど、
あなたの中の「子ども性」から溢れてくることがあるかもしれません。
大切なことは、その背景をよく思い出すということです。
忘れかけていたものが、見つかるかもしれませんし、
あなたの本当に見たい世界が広がっているかもしれません。