グローバル教育は、外に意識を向けることではなく 自分の感受性と頭をフルにつかって学び、生きること。
2015年現在「グローバル教育」「多元的共生社会」
「持続可能な開発のための教育」「国際理解教育」という、
「異なる価値に目を向け、言語を獲得し、それをまた、活用できる人」
を乳幼児期・児童期・青年期で育成しようとしています。
これは先日、述べた「コミュニケーション力」とも通じるところがあります。
英語教育などを重視 教育施策の大綱案まとまる 東京 - 産経ニュース
(2015.11.13)
「グローバル化に対応」
池上彰と考える「グローバル人材とは何か」 | ニュース | トピックス | ニュース - JICA
(上記記事の引用)
「社会はグローバル化がますます進み、日本と外国との相互依存関係は深化し、
直面する課題は複雑化している。こうした世界の現状を理解し、異なる価値観、
環境に適応し、多様性を生かして新しい解を作り出す力を持った
グローバル人材の育成が世界中で求められている。」
「グローバル化」「課題の複雑化」
「多様性」「新しい解を作り出す力」
そもそも「グローバル教育」とは、何でしょう。
その「global」とは何でしょうか。
まず、多かれ少なかれこのキーワードを出すことで、私たちは、議論し、
そこから何か新しい「解決策」を生み出したかのように見えて、
実は、「思考を巡らしている」だけで人生の時間・子どもを育てる時間を
費やしているということです。
「問題が問題を生む先」にばかり目が向けられており、再び後世へ
新しい「問題」のみを残してしまうのではないでしょうか。
50年後、100年後の地球・社会の姿は「こうある」という土俵で話が
進められていますが、それを、作りだしてきたのは私たち人間で、
現在、作り出しているのは、私たちですので、
それは決まっていることではありません。
未来のことを、確実に知っている人は誰もいません。
私は、いつも、教育は「今、ここ」にあるべきだと考えています。
それは、私たちが創りだしていけるという自信と可能性も含みます。
2015年11月現在の日本を見渡してみても、
情報・物質的なものが溢れています。
それが「課題の複雑化」を生み出しています。
家庭には、冷蔵庫、テレビ、パソコンなどの電化製品。
数歩のところに、スーパーマーケット・コンビニ(美味しいと思わされている添加物が入った加工品が並ぶ)があり、地上には、送電線がはしっていている。
病院に行けば、薬が処方され、ワクチンが投与される。
そして、出産時、病院では、ベルトコンベアーのように(出産方法については、多くの方法があり自身の生命体としての状況と照らし合わせながら、自ら情報を収集し選択することが大事である。)に命が誕生し、寿命がきて亡くなれば、火葬される。
結果、その知恵は、物質的なものを生み出すことに終始してきました。
それに、お金という「価値」に代替できるものを「如何に生み出すか」
という思考の下、顕在化されているものばかりです
そのような「価値」を「価値」として認識するために、
教育の場とテレビ、ニュースなどの多くのメディアが使用されます。
そして、私たちの「常識」を作り出していきます。
人々の意識のなかに「共通した認識」=「価値」を作り出し、
それが「社会的常識」になります。
この「常識に沿って」生きるための教育が、現在どこの家庭・教育現場
でなされていることに気付きます。
上記に述べたことを「豊かさ」として捉えてきた人が、再び教育する。
自ずとその「ベール」を被った人が育ちます。
そして、物質的「豊かさ」を育成する教育とは、
「同じものを量産できる人」とも言い換えることが出来ます。
つまり、同じ物を量産するためには、他者から与えられた正解を、
同じようにアウトプット出来ること目指します。
「物質的」豊かさを永続的に進めていくには、
それを「使用する人」と「開発する人」を同時に育んでいかなければなりません。
その循環が、資本主義経済を生みだしています。
つまり、大衆が「使用する側」「提供される側」でなければ、
この世界は循環していきません。
そのように考えると、私たちは「使用する側」での教育を受けてきたことが
事実であり、幼い頃からの「外的環境」からのアプローチで、
それに気が付かなかったことに自身を責める必要はありません。
その「完成」は、いつになったら訪れるのでしょうか。
そもそも、「完成」という言葉は存在するのでしょうか。
そして、その人間が人間的に進めてきた進化(わずかここ数百年)
の知恵は、本来の知恵なのでしょうか。
教育に近道はありませんし、
方法は「家族のカタチ」その「数」だけあると思っています。
私たちは、「多様性」と言われている世界に、酔って生きるのではなく、
議論している場合ではなく、目の前の状況を自分の感受性と頭で捉えてみると
テーマそのものが変わるかもしれません。
意識を外に向けるのではなく、
自分の感受性と頭をフルに使って生きることです。
それが、グローバルに繫がるのです。