人が学ぶ上で欠かすことが出来ないのが「自分で気付く」という プロセス。「評価する」よりも「観察すること」で得られるもの。

昨日、子どもの「生命感」について述べましたが、今日、改めて気付いたことがあります。

 

2015-11-11 - familylearning-fullの日記  (以下抜粋)

>「生命感」に溢れていて、いきいきとしている子は、とても「自発的」です。まさに、「自分から発している状態」です。この「状態」に入ると、見守るのことが1番です。親・教育者にとっては、その子の「良さ」を発見することができる貴重な瞬間ですから、観察すべきです。

 

 

ここでの「良さ」とは、大人の社会的常識に当てはまる「良い子」ではありません。

現在の学校・会社では、「人は評価できる」ということの土台にあるように思います。

 

この評価とは、人物の善悪を判断して決めるという広義です。

※ある目的に照らし合わせ、その方向性に導くための方法として、自己の手段と方法が

   適切であったかを「自己評価」するための フィードバックとは異なる。

 

 

評価するためには、1つの軸がなければ、できません。

つまり、当てはまる先のことです。

親・教育者は、外から与えられた軸に沿って、子どもの表面的な行動を評価します。

 

柔軟な子どもたちは、自分はそういう自分なんだと自己認識するようになります。

 

この幼児期・児童期に「私は、そんな人ではない!」と、はっきりと他者からの軸を気に留めない、強い自己をもった子もいますが、稀です。

 

上記のような刷り込みこそが、人が「自分で感じて、考える」ということが出来ない根本の原因の一つだと考えます。

 

 

そして、もう1つ。

「良い子」「悪い子」という言葉は存在していることが不思議です。

 

なぜなら、1人の子を見た時に、必ず両面が存在するからです。

それは、自然なことで、物事にも必ず表と裏があるように、その両方を体験し、体得しなければ、自分自身にとっての「善い」ことが判断できないということを、子どもは潜在的に知っています。

 

だから、表面上「悪い」ことをしてるように見えて、それは、その時期に必要な学びであることがあります。それは、自己の人格を育てていく上で必要な 時間でもあります。

 

そのように考えると、現代の日本では、その子が、自身の人格(軸)を育ていくことのできる環境と時間がどのくらいあるのでしょうか。

 

 

人が自分で学ぶ上で欠かすことができないのが、

「自分で気付く」ということです。

 

 

それは、知識からくるのではなく、体験によってもたらされます。

体験によって、経験した出来事が、外部から知識として情報として入ってきたときに、

その自己が体験したことと結びつき、「気付き」となります。

 

その体験とは、五感を使って世界を探求している状況から得られた感覚です。

 

家庭の役割の1つは、この「気付き」を、自己発生できる環境を育てることです。

 

 

私たちが、その子の「良さ」に気付くことができたならば、

親・教育者の内にも、その「良さ」が存在しているという確信にもなります。

 

大事なことは、社会的な常識に基づいて評価するよりも、観察することです。

と同時に、自己成長していく姿勢を見せ続けることです。