多様なコミュニケーションツールは「情報伝達・意思疎通する力」を本当に高めるのか。本来の人と人とのコミュニケーションは、自己の内から感じ考える「内発的」成長に支えられている。

「コミュニケーション力が大事である。」

 

「コミュニケーション能力を高める。」

 

私は、耳にタコができるほどよく耳にします。

 

現代において、とても大切であるとされています。

そして、以下の記事(2015.11.11)のように家族形態が変容している現在において、コミュニケーションについて、今一度、考えなおす必要があるのではないか。

 

「一人で子育て=女性」とは限らない 軽んじられがち「シングルファーザー」 (ZUU online) - Yahoo!ニュース BUSINESS

(2015.11.11)

 

 

 

そもそも、コミュニケーション(communication)の語源は

ラテン語のコムニカチオ(communicatio)です。

「分かち合うこと、共有すること」の意味です。

 

コミュニケーションとは 

社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる。「―をもつ」「―の欠如」

動物どうしの間で行われる、身振りや音声などによる情報伝達。 [補説]コミュニケーションは、情報の伝達、連絡、通信の意だけではなく、意思の疎通、心の通い合いという意でも使われる。「親子の―を取る」は親が子に一方的に話すのではなく、親子が互いに理解し合うことであろうし、「夫婦の―がない」という場合は、会話が成り立たない、気持ちが通わない関係をいうのであろう。

 

 

その意味を考えると、至難の技だと思います。

相手と分かち合う、共有することができている状態とは、人生のうちに、もしかしたら何回かほどしか訪れないのかもしれません。それに加え、そのような生命同士で行われるべき、コミュニケーションの場が、現代の社会を見渡せば、確実に減っています。

 

これまで、窓口で時間がかかった手続きも、機械を通せば、瞬時に終えられる。

子どもは、幼児期・児童期から「防犯ブザー」「子ども携帯」を肌身離さずに、もっている。

 

私たちの周りには「便利」とされている「多様」なコミュニケーションツールが存在しているのにも関わらず、

どうして、人間同士の関わりが「希薄化」されているのでしょうか。

 

その根本を探らなければ、本来、人が人として生きていくための大切な時間・機会に

必要な「コミュニケーション能力」を高めることができないのです。

それでいて、「コミュニケーション力を高める教育」には、無理があります。

 

なぜならば、子どもたちの学びは、生活することそのものにあるからです。

 

子どもの学びは、生活がベースになって、派生されます。

 

そもそも、個の経験からきた、「伝えたいこと」がなければ、どのような手段をもっていても意味がありません。

「誰かに伝えたい。」「あの人に知らせたい。」「自分の考えをシェアしたい。」

という初めの欲求がなければ、はじまりません。

 

それは、自己の内から「内発的」に感じられた、考えられた状況からスタートします。そして、子どもたちは、「誰かに伝えたい」という欲求を誰しもがもっています。

 

それを、身振り・手振り・声色・表情・目・言葉・体、すべての身体的情報で伝えてきますから、それを瞬時に読み取り、その背景を想像し、そこで一番、必要な言葉を投げかけることが出来るのかが、私たちの役割です。

 

ということは、親・教育者のコミュニケーションスキルが、鍛えられているということにもなります。

 

目の前の子どもの「意思・考え・アイデア」を、「聴く」ということは、家庭・家族において、一番重要なことかもしれません。

インターネットで「教育テレビ」「お受験先の学校」を選ぶ時間よりも、我が子の人生を豊かなものにしてほしいと願うならば、今、すぐに、目の前の子どもと、言語を超えたコミュニケーションを図ることが何よりも大切です。

 

 

上記で、コミュニケーションは、至難の技だと述べたのには、理由があります。

まず、人は、同じようなことを体験しているにも関わらず、違うように感じたり、見ていたりするのは、

「他者」であるからであり、「見ている世界・感じている世界」は違うからです。

 

そして、現在は、スマートフォン、電話、テレビ電話、チャット、スカイプなど多様なコミュニケーションツールが存在します。

 

しかし、コミュニケーションスキルが、現代において懸念されているのは、そのスキルを磨く場所と機会が減ってきているからであり、その「スキル」とは、人が人とリアルに関わることの技術のことを言っています。

 

2015年現在、溢れている「多様」なコミュニケーションツールは、

人が本来もつコミュニケーション能力を高めることになっていないと私は考えます。

 

けれど、それを駆使するように社会は構築されています。(ICT教育も含める。視覚的理解を助ける手段としては有効だか、根本から考えると議論の余地がある。)

 

どれだけ、ツールが発達しても、それらには、「物質」としての「無機質」なものである事実と、そこには「電磁波」が存在し、それを通しての、意思疎通になるので、

相手からの声や、目、身振り、顔色、肌感などの情報から、瞬時に判断することは出来ません。

(※電磁波については、自身でよく調べていただきたい。想像以上の衝撃と、知って上手く付き合えば、最大の効果になる。)

 

 

そして、それらの情報なしでは、「本当に、情報を交換した」ということにはならないのです。 

「心が通じている」「理解し合う」というのも、曖昧な表現であり、必ず「どちら側から見て」という、視点からでしか判断できません。

そして、同時に、自分が感じること、思考していることがストレートに伝わる

「表現手段」を私たちは身に付けているのでしょうか。それは、日々の試行錯誤です。

 

そう考えると、人は、孤独であり、その中で「如何に、自らを表現し、相手と関わるか」は、生きることそのものであるかのように思います。

 

自分の使命は何か、どのように生きていくのか ということが分かっている人は、ほとんどいないのが現実でしょう。

 

だからこそ、私たちは、出会いのなかで、相手のことを知ろうとする過程(コミュニケーションの過程)で自己を知り、その可能性に気付き、自己成長していくことは、生きることそのものであるように思います。

そして、その状態は、本来の「学ぶということ」に1番近い姿です。

 

人が、人として進化してきた過程のなかで、これほどにまで、本来のコミュニケーションが出来ずにいた時代はあったのでしょうか。

平安時代の人々が、文を詠む姿は、一見、時間も手間もかかるが、自分の人生を生きていく上では、十分な時間とスピードであったようにも感じます。

そこに身を馳せると、如何に現代の社会のコミュニケーションが、空虚で、見え見えで、直接的で、相手に想像することの余地を与えないものかが分かります。

 

それが、「自分の時間を奪われている」という事実にも気が付かなくてはなりません。だからこそ、自分の感覚、頭を使って、選び取るのです。