「豊かに生きる」という視点から教育を再定義すると

人は、唯一無二の存在だけれど、誰かのために生きることは、自身の豊かさに繋がると私は考えます。

本来の「豊かさ」とは何を指すのでしょうか。

それは、唯一無二の自分自身に気付き、その生を全うすることです。そして、人がもつ「想像力」「創造力」を発揮できている状態を言います。

その発揮の方法を、探ることが本来の教育の目的です。

「豊かさ」は、「幸福感」よりも人を人らしくするものです。

日本は、戦後から高度経済成長を迎え、資本主義のなかで「幸せ」を追い求めてきました。

「今、よりももっと。」

「誰よりも、もっと。」

そうやって、私たちの祖先は生きてきたのです。その上に私たちの世代が生きていることを認識しなければなりません。

 

今、描く「幸せ」を一度疑ってみるのもよいでしょう。

現在の日本の常識では、「富を人よりも多くもっていれば」「偏差値の高い学校に入れば」

「幸せ」だと 思い込んでいる 人が多すぎるように思います。

資本主義経済の上に、私たちの「暮らし」があるのだから当たり前かもしれません。

今では、世界システムそのものが、「お金」で動いているわけなので、日本だけではありません。

もちろん、お金は便利ものかもしれませんが、「一時の幸福感・快楽」は生み出すが、「豊かさ」は生み出しません。

そして、今、私たちは有限な人生の「時間」を、この「お金」という価値に変えて生きなくてはなりません。『モモ』というお話では、時間泥棒からモモという純粋な心をもつ少女は、人々の時間を取り戻そうとする物語です。

 

私たちは「時間」をどう使うか。真剣に考えなくてはなりません。死は怖れるものではなく、自然なことなのです。有限であるからこそ、その使命を各々が全うすべきです。そこには「時間」があります。

自然は必ず、移り変わり、変化していきます。そうやってめぐっている地球の歴史のなかの一コマを生きていることを私たちは、生命の記憶として知っています。

本来、自分らしく居られる場所はあなたを成長させます。

人と同じことはできません。しかし、同じようなことをするように現在の教育は仕組まれています。違いを排除することで、統一できるからです。

 

実は、本来は人と違うからこそ「社会システム」が成り立つのです。それぞれが「自分に出来ることを」を見つけて、行動に移すだけで、必要としている人が必ずいます。

そのシステムそのものは、「豊かさ」を生みだします。なぜなら、人の可能性の分だけ生み出せるからです。

教育とは、教えることでもなく、外の枠に当てはめることでもなく、

自分の内から、引き出されるものに出会うという時間そのものなのです。

教育でできることは、先人が「先見の目」をもち、その「可能性」を信じて「関わり」を育む環境を創ることなのです。

何を教えるか、訓練させるかを思考することは、誰かが決めた「幸せ」を押し付けることでもあるのです。皆が、それでいいかというわけではありません。しかし、放任することとは違います。人として生きる上での軸を学びつつ、善悪の判断(物事には裏と表があります。白黒付けられないことがほとんどです。)思考方法、感情の醸成を同時に育んでいく必要があります。

人がもつ、いつ開くか分からない未知の可能性を信じて、関わることが本来の教育の姿です。


引き続き、教育についてアップしていきます。